10月 まるまる舞鶴 今日は何の日

2023年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

10月1日、1901年(明治34)舞鶴鎮守府開庁、舞鶴海軍造船廠発足、1928年(昭和3)八雲村設置(丸八江村、東雲村合併)、1947年(昭和22)舞鶴市消防団結成、年度後半最初の日、鎮守府他いろいろはじまります。

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1813年(文化10)10月3日

池之内組大庄屋、操り芝居を組内村々半日休みとして見物するよう達する

この操り芝居では、組全体で正4ツ時(午前10時)から晩方まで見物する準備をしました。

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1793年(寛政5)10月5日

田辺の俳人たち、円隆寺(智恩院)で芭蕉忌を興行して、その境内に句碑「烏塚」を建立し、記念句集「烏塚百回忌」を京都橘屋から版行する

この「烏塚百回忌」には、全国146人から俳句が寄せられ、田辺領内は50人に及びました。

「烏塚」の芭蕉の句は「何にこの師走の市にゆく烏」、建立の中心人物は、田辺の豪商逸見木越(与一左衛門)で、木越の句は「尾花しとろの霜白き道」です。

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1958年(昭和33)10月7日

市議会、財政再建計画の変更(再建期間を1か年短縮)を可決

この計画は、戦後復興における財政難による、赤字1億8千万円を解消するものでした。当初、昭和30~37年度の設定でしたが、31年度以降産業の好況が続き、36年度に終了し健全化しました。

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1745年(延享2)10月8日

藩、80歳以上または親類のいない70歳以上の老人の取調べを申達する

この時期、藩主牧野明成は、孝子や孝養の顕彰を進め、1743年(寛保3)正月、岡田由里村武左衛門・たあ夫婦の孝養を賞して、年貢米を永久に免除、白銀2枚を給しました。

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1816年(文化13)10月11日

藩、池之内組村々に、来る13日今田村立山の杉植え人足の出役を申しつける

立山とは建山とも書く、藩直轄の森林です。多くは松の植林でしたが、今回は杉で各村から人足が鍬・もっこ・棒を持参しています。

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1786年(天明6)10月12日

田辺の逸見木越、俳人蝶夢と城崎に会して丹後、但馬の俳友と共に芭蕉忌を催し、記念句集「湯島翁記」(1冊)を京都橘屋から上梓する

逸見木越は、1781年(天明元)5月にも、自筆の俳画を挿入して「身延山参詣記」を記しています。

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1949年(昭和24)10月13日

京都府漁業協同組合連合会設立

この連合会は、昭和23年12月公布の「水産業協同組合法」によるものです。漁業協同組合は、漁村の民主化、社会的・経済的地位の向上、生産力増大を目的としました。舞鶴市域には、当時11の組合が設立されました。

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1836年(天保7)10月15日

池之内組大庄屋、組内白滝、岸谷、上根、寺田村の晩田種籾を世話してくれるよう村々に頼む

これは天保の飢饉による晩田の収穫皆無によるものです。この年は夏至から土用にかけ長雨が続き、梅雨の時期の低温による冷害とも考えられています。

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1848年(嘉永元)10月16日

藩、藩主祖見樹院(康成)250回忌法事滞りなく済んだ祝儀として、村々へ酒肴を給すると達する

この藩祖の法事以外に、牧野氏の田辺城地拝領も150年、200年と続けています。

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1802年(享和2)10月17日

宣成、八田村徳右衛門、きわ夫婦の孝養を賞して、鳥目を給する

『田辺孝子伝』によると、長患いの92歳の母によく随ったことが奇特と賞されて鳥目(銭)を賜ります。なほ、実体で心得方がよいとのことで、7年後の文化6年(1809)白銀が下付されました。

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1946年(昭和21)10月19日

社団法人舞鶴商工会議所設立

舞鶴商工会議所は、昭和19年4月商工経済会法により、京都府商工経済会舞鶴支部として発足し、昭和21年9月の廃止により解散した同会の後進です。戦後の再建のため経済的基盤を確立することが目標でした。

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1944年(昭和19)10月20日

動員学徒監督職員錬成会(舞鶴海軍工廠、西舞鶴郵便局)

8月に文部省から「学徒勤労令」が出され、国民学校高等科児童も動員されます。10月2日から指導者錬成会が始まり、19日に明倫・余内・中筋・高野国民学校勤労動員出動式が開催されました。

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1850年(嘉永3)10月21日

藩、昨年の拝借米4000俵の返納につき、先頃不慮の天災もあり下々難渋を察して、当年は上納仰せつけないと達する

この天災は、9月3日の領内大洪水で凶作となり、10月町方より難渋人が多く出て毎夜ものもらいをし、11月には極難渋者へ施米します

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1811年(文化8)10月

藩、桑飼上村四郎右衛門・野村寺村新左衛門に、村々の山ずいぬけ箇所を見回らせ、村役人と砂止め策を掛け合わす

四郎右衛門と新左衛門は、藩から畿内・中国地方へ派遣され先進地の農業を見分していました。ずいぬけとは土石流や崖崩れと思われます。

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1852年(嘉永5)10月24日

藩、作物取荒しの儀、去る天保8年の通り昼夜に限らず隠密を回して捕えさすが、村々でも五人組で吟味し、役所へ訴え出るよう達する

作物取荒=農荒に関しては村内でも対策が取られ、天保6年倉谷村の議定では、2貫文の過料という取り決めでした。

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1863年(文久3)10月26日

藩、近日城内において甲冑調練あり、城外へも押し出す場合があり、不敬不礼のないよう心得るべき旨を達する

この年、7月鹿児島で薩英戦争、8月大和で天誅組の変、京都で八月一八日の政変、10月但馬で生野の変が起こり、急速に変化していました。

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1906年(明治39)10月27日

舞鶴、ウラジオストク間航路の運航開始、初めて第三多聞丸舞鶴を出港

明治38年の日露戦争勝利とともに航路が開かれました。すでに、明治35年シベリア鉄道が開通し、敦賀とウラジオストクの間で航路が開かれ、ヨーロッパへの玄関となりました。---

1955年(昭和30)10月28日

舞鶴、小樽間定期航路再開第1船(極東丸)舞鶴出港

北海道航路は舞鶴市、商工会議所、舞鶴港振興会等が再開運動を実施しました。そして、飯野海運株式会社の好意により定期航路の開設が決まりました。

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1897年(明治30)10月30日

大橋(舞鶴町、高野川)渡橋式(明治29、8流失)

明治29年8月30日大暴風雨となり、31日にかけて大洪水となりました。31日午前中、高野川の橋が流され、午後仮橋が架けられました。10月7日再び洪水が発生し、仮橋も流失し交通が遮断されました。

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1961年(昭和36)10月31日

市、北海道産馬鈴薯でんぷん買上げ地に指定される

これまでは札幌、函館、小樽のみが指定されていましたが、舞鶴は本州で唯一の指定でした。京阪神への中継地、倉庫料が安い、1955年の北海道航路再開による、入荷実績が評価されたものでした。

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