2023年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
1925年(大正14)11月1日
第1回小学校男児籃球競技会開催(舞鶴中学校主催)
籃球(ろうきゅう)とはバスケットボールのことです。女子は、昭和2年舞鶴高等女学校が大会を開催しています。
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1904年(明治37)11月3日
官設鉄道舞鶴線(福知山、新舞鶴間)開通、舞鶴駅、新舞鶴駅、海舞鶴駅開設(大阪、新舞鶴間全通)
この鉄道は、日露開戦前に緊急敷設路線として、明治36年5月に着工されたものでした
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1899年(明治32)11月4日
第1回加佐郡会開く
9月30日第1回の郡会議員選挙が行われ28人が当選しました。この郡会では、議長に木船衛門、副議長由里儀兵衛を選出し、郡吏員の人件費、道路の改良補助金などを決めています。
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1878年(明治11)11月5日
市場遵法校で大試験
市場の遵法校は小学校です。当時の小学校では、大中小試験があり、大試験は卒業判定の試験でした。この試験は、他校の教員や生徒の家族親類をはじめ、誰でも参観することができました。
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1949年(昭和24)11月7日
市議会、東西分離問題について緊急議員総会開催、市議会対策委員会を設置、市長、東西分離反対を表明
この東西分離問題は、西地区の住民から提出されたもので、その後、住民投票、京都府会でも議論され、昭和26年まで続きました。
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1939年(昭和14)11月8日
松島橋(東舞鶴市溝尻、志楽川)渡初式(舞鶴要港部建設)
松島通りに通じるこの橋ができるまで、志楽川の川下は竜宮橋のみでした。この直後、12月1日舞鶴要港部は舞鶴鎮守府に復活します。
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1935年(昭和10)11月9日
舞鶴海軍航空隊(与謝郡栗田村)開隊式
この航空隊は水上基地で、速力の遅い水上機が10機程度配備されているだけでした。そのため昭和19年、舞鶴鎮守府防衛のため天田郡西中筋村と中郡河辺村に陸上航空基地の建設が進められました。
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1903年(明治36)11月10日
舞鶴海軍工廠発足
最初、造船廠で出発しましたが、舞鶴海軍工廠となりました。1922年(大正11)同日に 舞鶴海軍工廠縮小に伴い第1次人員整理(81人)が行われ、1923年同日には、舞鶴要港部工作部、第2次人員整理(896名)を発表しています。
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1860年(安政7)11月11日
藩、平野吉左衛門ら在町豪農商8人に借財整理、財政再建を一任
8人は平野他、梅垣西浦・岩田伊左衛門・木船衛門・上野弥一郎・金村仁兵衛・山中吉兵衛・由良村平兵衛でした。借財は87,957両、領内からは30%を超え、平野・梅垣・由良が銀主でした
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1810年(文化7)11月
藩、村々年来の作り方を定法と思わず、米麦・綿・野菜栽培の有益な方法を採用し、難渋人には農道具を支給すると達する
田は冬に7.8寸~1尺も深く荒起こしして凍てさせると、春の耕耘に土が細かくなり、保水もよくなり収穫が増えるなど細かな指示でした
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1951年(昭和26)11月13日
天皇、舞鶴市へ巡幸
昭和天皇は、11時47分東舞鶴駅着、市役所で嵯峨根市長から舞鶴市の沿革や平和産業都市への転換の様子を聞きました。その後、明倫小学校を訪問し1万人の市民に歓迎され、13時55分には西舞鶴駅を発し峰山へ向かいました。
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1929年(昭和4)11月15日
新、中舞鶴町長、倉梯村長ら、ロンドン軍縮会議出席全権委員に再縮小反対の陳情書を提出
全権委員には、舞鶴鎮守府8代司令長官を勤めた海軍大臣財部彪がいました。財部は中舞鶴線の鉄道敷設に尽力したので、同線は「財部鉄道」と呼ばれていました
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1898年(明治31)11月16日
府会議員上野弥一郎(加佐郡選出)第7代府会議長就任
上野弥一郎は西方寺村出身、川口中組の大庄屋を務めました。明治15年府会議員となり、その後、衆議院議員になりました。京都府立京都学・歴彩館には上野家文書約34900点が現存しています。
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1840年(天保11)11月17日
藩、領内より他所へ薪を売り出す儀は前々から停止、近ごろ心得違の村方もあるので、海辺の村々へもそのようなことがないよう達する
藩は、文化8年に腰林で伐採した材木代価の15歩1を銀納させ、薪の他領売買を禁じていました。
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1946年(昭和21)11月
西地区商店街「えびす市」を再開(舞鶴西商工会主催)
えびす市は、戦争のため6年ぶりに復活したものでした。その後、昭和23年10月東地区のだるま祭、24年7月にはみなと祭が開催されます。えびす市は、1891年丹波町にえびすを祀りはじまりました。
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1918年(大正7)11月20日
新舞鶴、余部間鉄道敷設着工(既設海軍専用引込線利用)
海軍専用引込線は明治37年11月3日に完成しました。昭和47年に廃線となり、現在は自転車・歩行者専用道路となっています。この内、北吸隧道は、国の登録有形文化財です。
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1445年(文安2)11月21日
勧進聖道仙、山口神社に鰐口を寄進する
この鰐口は、1737年(元文2)春、宮津の加右衛門の田が山崩れとなり、土中から掘り出されました。加右衛門から田辺引土町の六兵衛へ話し、六兵衛が堂奥に知らせたと「丹後国加佐郡旧語集」に出ています。
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1952年(昭和27)11月22日
松尾寺の普賢延命像(1幅)国宝に指定
戦後の文化財保護法による国宝の指定は、1951年にはじまり、普賢延命像はその翌年に指定されています。すでに、明治35年4月17日、古社寺保存法指定となっています。
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1710年(宝永7)11月25日
大坂天満老松町岡村善八、由良川と加古川の舟運を結んだ丹後国栗田湊、播磨国高砂湊間の通船を、大坂町奉行に願い出る
この由良川通船は、元禄期に江戸商人により由良川・高屋川を遡上し、一部陸路、保津川を下り嵯峨に至る案も画策されました。
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1934年(昭和9)11月26日
舞鶴町立舞鶴幼稚園、明倫小学校敷地内より移転増築落成(舞鶴町字南田辺、現西総合会館南隣)
1884年(明治17)11月に、明倫小学校内に幼稚保育科を置き保育を開始した舞鶴幼稚園は、1920年(大正9)10月にうのもり神社隣に移転し、開園して約50年で現在地に移転しました。
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1654年(承応3)11月28日
牧野親成、京都所司代を命じられる。
1664年(寛文4)11月28日
牧野親成、参府して将軍に糸造りの鎧、御台所に鏡2面、歌碑一匣を献上する
所司代就任10年目、寛文4年3月病気になり冨成が看持していますので、いずれかの御礼かもしれません。
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1897年(明治30)葦谷砲台(西大浦村)起工、続いて各砲台設置に着手、1898年槇山砲台築造工事に着手、1902年吉坂堡塁竣工
1945年(昭和20)進駐軍の指揮により砲台・堡塁等爆砕作業終了(冠島砲台を除く)
砲台の起工、竣工も爆砕もすべて11月でした。
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1961年(昭和36)11月30日 五老岳山頂に児童遊園地完成
1962年(昭和37)11月30日 五老岳山頂に展望台完成
五老岳公園は、昭和25年6月の「旧軍都市転換法」により、舞鶴守備隊五老岳砲台跡を昭和34年12月28日国から譲与されたものでした。