1月 まるまる舞鶴 今日は何の日

2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

1960年(昭和35年庚子)1月1日

国鉄準急「丹後」号(東舞鶴、京都間)運転開始

(昭和34年9月開通ともあり)

昭和36年3月には東舞鶴・金沢間に準急「わかさ」が運転開始し、昭和39年12月には金沢・出雲市間の日本海沿いに急行「あさしお」が走り、鉄道の近代化が進みます。

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1958年(昭和33)1月3日

ソ連船スターリー、ボルシェビック号北洋材を積んで初入港

この2隻は、ソ連の木材を1800トン積み入港しました。その後、輸入が増加し、昭和42年には52万トンになり、同43年には3隻目のウラルレス号が定期船として就航しました。

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1807年(文化4)1月

藩、宗門改につき、当年より2、3年、奉行は出郷せず、大庄屋が庄屋を連れて村々を廻り、改を施行するよう指示

田辺藩では、宗門改の帳面(現在の戸籍・住民票の機能)を「幾利支丹宗門改帳」としました。その他、多くの藩では「切支丹宗門改帳」です。

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1819年(文政2)1月5日

藩、殊の外大雪ゆえ、村々にて百姓他出し老人、子供のみの弱き家は村役人気をつけて屋根雪かき落し、難渋の者あれば村役人吟味のうえ申し出るよう沙汰する

翌年、この地を旅した吉田屋も「西国巡礼略打道中記」に、雪囲いの家の図を残しています。

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1930年(昭和5)1月6日

内務省、新舞鶴港(東港)を指定港湾に指定

東港は明治34年10月舞鶴鎮守府開庁により軍港となり、商港の利用が制限されました。大正11年要港部への格下げにより、翌年から商港に転換し、昭和14年に軍港に復活し、同16年9月再度鎮守府へ移管されます。

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1817年(文化14)1月8日

藩、藩主が当年祝年によって、農料米3000俵を郷中へ下さる旨達する

これは、牧野氏の田辺城地拝領150年を祝ったもので、4月には歴代の祖霊を城内に祀り、領民にも酒肴を下賜しました。

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1910年(明治43)1月9日

舞鶴海軍工廠大成会夜学校開校式(余部第二小学校校舎を充用)

この夜学校は、実業補習学校の一つで、後に余部町立工業補習学校となります。海軍工廠見習工の教育施設の性格を持ち、普通科目は小学校教員、工業科目は工廠の幹部職員が指導しました。

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1903年(明治36)1月10日

成生漁業組合設立

明治25年に宮崎県の日高父子によって考案された鰤漁の大敷網は、まず明治38年に高知県の窪添により伊根に導入されました。その後、明治39年11月隣村田井、12月に成生にも導入され、漁獲高は急増しました。

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1835年(天保6)1月

藩、上福井・下福井村街道(宮津街道)が悪くなったため、郷中に道造り砂持ち人足1000人の出役を申しつける(郷人足)

1836年(天保7)1月

藩、京橋より七日市村までの街道(京街道)普請に、郷人足の出役を申しつける

郷人足は各大庄屋組から出役させました

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1898年(明治31)1月13日

倉梯村役場の一部を字浜に移す

この移転は、舞鶴鎮守府開庁に伴うもので明治33年8月新築庁舎に移転します。明治39年7月新舞鶴町設置による置町分村で行永へ移転し、明治42年4月再移転し、昭和7年に新築されます。東舞鶴の発展に伴い動いています

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1月15日

1846年(弘化3)藩江戸表家敷類焼する

江戸藩邸は、15年前の1831年(天保2)1月18日、江戸藩邸両屋敷とにも類焼していました。ほぼ同月日の火事といえます。

1846年(弘化3年丙午)5月10日

藩は、江戸表屋敷普請用の御用材木を、今田村青谷林や村々宮山にて伐り出しています。

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1842年(天保13)1月

藩、近来奢りの風俗となり、近頃は公儀の享保・寛政度触書、藩の宝暦度以来の達を当座と考え守っておらず、衣類・日用品・装身具・家作・嫁入り支度・飲食・贈答など質素に心得るべき旨を達する

質素倹約の触は何度も繰り返されています。

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1868(慶応4)1月18日

山陰鎮撫使一行田辺城下に入る

この山陰鎮撫使は西園寺公望を総督とし、薩摩・長州を中心に、福知山・柏原・園部・篠山藩兵、馬路村の郷士など620人ほどの人数でした。一行は、福知山から由良川を下り大川で上陸し、田辺城下に入ります。

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1854年(嘉永7)1月19日

江戸藩邸、アメリカ船渡来につき門留となる(2月28日門留解除)

このアメリカ船はペリーの再来航で、前年の来航の際も家中から足軽・中間まで門留(6日間)となりました。ただし、洗湯(銭湯)はすぐに帰るのを条件に幕府から特別に許可されました。

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1944年(昭和19)1月20日

市、市徽章を制定

現在の舞鶴市の市章は79年前に制定されました。この市章は一般公募で選定され、周囲の○が「マ」、中のYは「イ」、図全体が「ツル」、ツルが翼を広げて舞う姿を表しています。

https://www.city.maizuru.kyoto.jp/html/reiki_int/reiki_honbun/k104RG002000688.html

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1945年(昭和20)1月21日

舞鶴鎮守府管下海軍合同葬、舞鶴海仁会講堂で執行(最後の合同葬となる)

終戦時に舞鶴鎮守府在籍兵員は54,614人、その内戦病死者は、特務士官・准士官1,045人、下士官兵24,857人、計25,902人に及びました。

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1959年(昭和34)1月22日

朝来鉄道側線、本市へ譲与決定

朝来鉄道側線は、戦時中に第三海軍火薬廠が輸送用に建設、松尾寺駅から大波下まで6.8㎞の鉄道でした。戦後は進駐軍の弾薬輸送に使われ、市へ譲与後、日本板硝子(株)舞鶴工場が使用し、後に廃線となりました。

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1597年(慶長2)1月23日

忠興、田辺城において能興行、番組は鵜羽、真盛、源氏供養ほか

忠興は、1583年(天正11)~1599年(慶長4)の17年間に50回、433番もの能興行を実施しました。場所は、田辺城の他、川辺宮・円隆寺でも行われました。

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1827年(文政10)1月25日

藩、雨天の節、村々役人が下駄懸けにて役所へ罷り出ることを認める(寛政年中木履懸け差止め)

この件は、寛政期から続いた庄屋集団の願であり、町役人との差別や、庄屋の一斉退役などを口にして主張を通しました。

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859年(天安3)1月27日

丹後国従五位下大川神、従五位上を授けられる

大川神社は、延喜式に記された式内社で、国の名神祭の際に綿・木綿・麻など奉幣される名神大の待遇でした。全国285座、丹後国7社、加佐郡では大川神社のみで、871年(貞観13)には正五位下となりました

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1719年(享保4)1月26日

夜、有路組(川口上組)13か村百姓、同組大庄屋の悪事を書き立て、三方台にのせて大手門、藩札場に置く 藩、あて名のない書付として取り上げず

この一件は、大庄屋組内の騒動でした。この後、享保14年田辺藩領内を巻き込む一揆が起こります。有路組の騒動は一揆後も続き、大庄屋預米の上納をめぐって、大庄屋と二ヶ村百姓が対立、大庄屋が藩へ告訴し二ヶ村年寄が処刑されます。

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1938年(昭和13)1月29日

満蒙開拓青少年義勇軍編成打合会開催(舞鶴公会堂)

昭和7年3月満州国の建国宣言があり、日本の国策として満蒙開拓が奨励されました。4月府下で初めて舞鶴町他40戸の農家が移住しました。

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1850年(嘉永3)1月

大庄屋中は、中間が給米2石の増給を訴えたため、江戸行3石、地勤2石5斗、増金なしと定めるよう願い出る

藩の中間は人も給与も村の負担でした。享保一揆後、用捨として3500石ほど年貢免除されますが、そこには中間300人分600石の給米が含まれていました

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1875年(明治8)1月31日

豊岡県、大区の担当業務を2人の副区長に分課させる

明治5年4月、大区小区制により加佐郡は第14・15大区となります。15大区長は梅垣西浦、副区長は高田久兵衛・江上甚兵衛・木船衛門・行永太左衛門・梅原六右衛門と、旧藩の大庄屋・庄屋層でした。

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