2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
1879年(明治12)2月1日
雄島(冠島)の内、77%を野原、小橋、三浜3村共有の民有地、他を官有地と定める
地租改正により官民有地区分が進められ、8町6反3畝5歩が民有地、2町6反が上地で官有地になりました。この他、老人島明神社、瀬ノ宮社境内地が設定されています。
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1828年(文政11)2月3日
池之内組大庄屋、当組の宗門改の実施を庄屋へ通知
1840年(天保11)1846年(弘化3)
藩、宗門改につき奉行出郷、大庄屋宅にて印形を指示(宗門大改)
この宗門大改は、文化8年以降、6年目に一度藩役人が出郷し、それ以外は村役人で実施されたものです
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1655年(承応4)2月4日
牧野親成、上洛の暇を下され侍従に任官、来国光の刀ならびに馬をたまわる
牧野家では、1684年(貞享元)11月26日、冨成が、判物御朱印御用を務め備前近景、1725年(享保10)1月28日英成が京都所司代赴任に際して備前近景の刀をたまわっています。
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1951年(昭和26)2月5日
市内小学校、完全給食実施
戦後の食糧難の中で、1946年(昭和21)3月から週3回の給食が始まり、秋にはアメリカから援助された脱脂粉乳が配給されました。この1951年の完全給食は、パン・ミルク・おかずの3種でした。
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1865年(元治2)2月
藩、壱本杉という稲作を禁止したが、土地によりこの稲でなくては出来ないので、場所により許可したが、心得違いもあり今後の使用を禁止
田辺藩では、田に植えた品種を、木札を立て管理していました。舞鶴市郷土資料館だより
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1581年(天正9)2月8日
三浜刀祢又四郎、桂嶋の𩹉道(飛魚漁場)を小橋の新屋へ代銭一貫文で永代に売り渡す
𩹉道は、飛魚の刺し網で、近隣の成生でも行われていました。
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1701年(元禄14)2月9日
幕府、田辺城外曲輪堀の浚渫を許可する
この許可を受けて、翌元禄15年3月10日に堀普請が始まり、東西から1日800人づつ人足が出されました。また1705年(宝永2)3月13日~4月14日にも堀普請が行われ、人足1万3千人になりました。
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1847年(弘化4)2月10日
藩、青谷そのほか所々の林より材木を作事所へ持運びのため、東西郷人足2000人を申しつける
この伐木は、前年1846年(弘化3)1月15日、藩江戸表屋敷類焼後の再建のためのものでした。
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1940年(昭和15)2月11日
各学校で紀元2600年奉祝旗行列
舞鶴市はこの記念事業として、舞鶴公園内の田辺城本丸跡石垣に郷土資料陳列館(隅櫓)の建築を計画しました。2月5日有本国蔵が資金を寄贈し、12月11日彰古館として落成しました。現在の田辺城資料館です。
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1867年(慶応3)2月12日
藩、近ごろ茶臼山辺は水車にて合薬調合をしているので、以後、同所にて火を燃すことを禁じると達する
茶臼山のあった引土では、大砲も製造していました。焔硝蔵は倉谷村にあり、その後天台村にも移ります。
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1812年(文化9)2月14日
福来村溜池普請、同村所属池之内組懸りとしてその人足、組内村々より出役する
この普請は、藩の干害対策として、文化元年林六三郎が郡奉行に就任して以降、積極的に推進されました。村内で労力が不足した場合、大庄屋組内の村々が出役しました。
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1921年(大正10)2月15日
新舞鶴町民、府立中学校建設位置に反対し町民大会を開く
加佐郡会では、建築費負担を舞鶴・中舞鶴・新舞鶴は3.76と決定しました。中筋村に設置とした文部省告示に対して、中舞鶴・新舞鶴町他東部8町村は不当として負担金削除などを議決しました。
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1852年(嘉永5)閏2月16日
藩、真倉村街道普請入用につき、東西村々に人足700人を差し出すよう達する
この京都へ続く京街道等の街道は、郡奉行配下の道方が管轄し、2月に普請場所を見分します。大工事の場合は奉行へ届け、大庄屋組人足(郷人足)が命じられました。
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1622年(元和8)2月17日
元和2年盗み出された興禅寺の毘沙門天立像(重文)、地元の庄屋、年寄等の結衆により伊勢国から無事迎え戻す
この多門院興禅寺の毘沙門天立像については、新谷一幸さんの「多門院歴史探訪」に詳しく紹介されています。
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1832年(天保3)2月
心学者柴田遊翁、柴田鳩翁の代講として梅木魯斎と共に田辺へ来講する
柴田遊翁は、越前大野藩士、19歳で京都に出て柴田鳩翁に師事し心学に入門、25歳の時、鳩翁の養子となります。安政6年までに田辺へ14回来講し、門人も446人に達しました。
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1868年(慶応4)2月19日
田辺藩、在京の藩兵を帰国させ、北海よりの異変に備えて自国の警衛に当たりたい旨の伺いを朝廷に出す
田辺は城下付近まで着船でき、船がかりに便利な地であり、以前から京都の北門と位置づけられ警備を続けていると説明します。29日帰国しました。
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1811年(文化8)2月20日
今田村、古来、田畑高3石所持すれば本百姓に加えていたが、百姓中は41人を百姓株とし株以外の者へ田畑、山林を売らないとの規定を立てる
今田村では水呑の力が強く、小作地の一斉返還が発生し、それに対抗し本百姓株の固定という策がとれられました
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1917年(大正6)2月22日
余部町会、町名を「軍港舞鶴町」と変更決議
余部町内には鎮守府や工廠などが舞鶴の名を冠し、新舞鶴町の一部と誤解されていました。そのため「軍港舞鶴町」としましたが翌年1月却下されます。同26日「中舞鶴町」と変更し翌年認可されました。
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1810年(文化7)2月
大波上村、甚だ難渋につき村方一統成り立つため、当年から5か年の間の倹約を決めた村掟を立てる
この倹約は、神事は神子舞のみ、祭礼日に他村から客を招かない、仏事の酒は禁止。足袋・菅笠・提灯の禁止、休日は1日を半日、など数多く定められました
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1821年(文政4)2月25日
大川社拝殿再建につき、この日より芝居興行する 木戸札1枚銀札5分
このときの木戸札は、川口3組(上中下)以外の5組へ400枚を捌くよう依頼があり、池之内組の場合は、遠方で見物できなくても、寄進と思って売るように庄屋へ指示しています。
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1854年(嘉永7)2月26日
川口中組大庄屋、心学先生の道話が2、晦日冨室村、3、1長谷村で開講されるので最寄りの村々は聴聞にくるよう達する
大庄屋から、27日に川東の真壁で開催されること、冨室村は北有路村へ、長谷村は冨室村へ迎えの人足を出すよう指示がありました。
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1856年(安政3)2月27日
藩、繭を買い女を雇って糸を引くのは禁止と弘化2年触れたが、心得違の者もあり、止めず糸引く者は吟味のうえ咎申しつけると達する
1865年(慶応元)5月の触によると、仲間を組み糸引き女を雇い、近村の繭を買い寄せるのは村糸と呼ばれ禁止されました
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1733年(享保18)2月29日
53か村庄屋中、中間奉公人お目見えのあと万願寺村で寄り合い、村々の要求を大庄屋に訴え藩へ取り次いでもらうことを申し合わせる
藩領最大の一揆でもある享保の一揆の打ち合わせでした。享保10年以来続いた悪作は、いわゆる享保の飢饉となります。