4月 まるまる舞鶴 今日は何の日

2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

 4月1日

1950年(昭和25)市、東、中、西公民館を設置

1959年 倉梯公民館、南公民館と改称、加佐公民館設置

1946年7月文部省より市町村に公民館設置が通知されました。1959年に東・中央・西・南・加佐の5公民館が揃い、住民の学習や会議、レクレーションに利用されます

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4月2日

1719年(享保4)

英成、将軍の名代として日光参詣を仰せつけられる

1808年(文化5)、1818年(文化15)

以成、将軍の名代として日光参詣を仰せつけられる

徳川家康の命日が4月17日であったため、日光への名代は4月初旬に出発していました。

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1852年(嘉永5) 4月3日

藩、当年は鎌鷺多く苗代を痛め難渋のため、村々御免猟師鉄砲、御免威鉄砲、他借筒所持の者申し合わせ、玉込めせず威しに用いる儀、4月より8月まで、一村限りに御免とする

鎌鷺はクロトキのことで、今では中国から渡来する珍しい鳥となっています

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1945年(昭和20)4月5日

市の第1次家屋強制疎開実施

昭和18年12月に「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、19年1月に東京、名古屋、7月に京都府へ命令が出ました。舞鶴市の強制疎開は1200戸にも及び、対象になると5日間の内に

立ち退く必要があり、厳しい内容でした。

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1830年(文政13)4月6日

池之内組大庄屋、村々に伊勢参りの者が先月停止の指示までに幾人あったか、早々取り調べるようにとの藩の達しを通知する

文政13年の伊勢参りは60年目のおかげ年となり、8月末までに約500万人となりました。4月3日にも抜参りの禁止を通達しています

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1771年(明和8)4月7日

大規模な伊勢お蔭参りが起こる、この日までに当藩在町から5922人が抜参りする

この年の伊勢参りは、4月初め山城の宇治からはじまり全国に広がりました。前年は大干ばつの年で、7月28日には日本各地でオーロラが見られました。

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1897年(明治30)4月9日

木船衛門(倉梯村)、上野修吉(舞鶴町)連名で、海軍用地開削排土を用い海面埋立申請書を府に提出(6月2日却下)

この計画は11万坪の排土を各海岸に運び、5年間かけて農地を作るものでした。海軍省から京都府への依頼でした。

しかし、当時の山本権兵衛臨時海軍建築部長により、海軍用地開削は31年度中に終わる見込みなので、5年は長いとして却下されました。

木船衛門家の文書を対象とした、『舞鶴木船衛門家文書調査報告』3月末に刊行しました。

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1879年(明治12)4月10日

加佐郡役所を舞鶴に設置、初代郡長に野田新就任

野田は旧田辺藩士で郡奉行などを歴任しました。郡役所は最初、舞鶴町の土井市兵衛宅に置かれ、野田は明治24年まで郡長を務めました。

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1571年(元亀2)4月11日

丹後、但馬国の兵船が尼子勝久へ味方して、出雲、伯耆国の沿岸を劫略することに対し、毛利元就、輝元が将軍の禁令を要請したが、この日、信長、承諾の旨を小早川隆景に報じる

この時期、丹後・但馬の兵船は賊船と呼ばれ海賊のようになっていました

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1924年(大正13)4月12日

峰山線舞鶴、宮津間開通、鉄道連絡船舞鶴、宮津間航路廃止、海舞鶴駅、貨物駅となる

海舞鶴駅は、1904年(明治37)11月3日に開設され、1965年(昭和40)10月舞鶴港駅と改称され、1985年3月廃止されました。

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1837年(天保8)4月13日

池之内組大庄屋、池ノ内、堀村より岸谷村まで、木の芽、草摘み採りに入り込むことを、この日より許可する

天保の飢饉により、藩は3月には木の芽採り、摘草する山の少ない村に融通して入山させ、立山でも採取可能なので願い出るよう達しています。

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1817年(文化14)4月15日

藩、150年祝儀の酒肴を村々に下し置く

牧野氏入部150年の祝儀ですが、4月3日には、藩主牧野以成が、歴代の祖霊を城内大書院において祭り、他日、家臣を供応しています。

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1945年(昭和20)4月16日

明倫国民学校、焼夷弾攻撃に備え校舎天井板除去作業開始(4月21日完了)

天井板の取り外しは、小型焼夷弾の早期発見、初期防火の万全を期するために実施され、外した板はガラスの補強に使いました。この取り外しは、一般民家にも徹底されました。

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1733年(享保18)4月17日

竹屋町壺屋与一左衛門、一揆の願書を書き改め、要求を大庄屋預かり米の未納分用捨、拝借銀札、米麦の分割返納、5か年間免下げとするよう働きかけ、17日村々庄屋中が承諾する

一揆側の要求では藩財政が破綻するため、城下第一の豪商逸見(壺屋)を通じて働きかけたものでした

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1852年(嘉永5)4月18日

藩、泉源寺村梅垣西浦、北有路村平野吉左衛門、由良村四郎左衛門、久田美村杢兵衛へ、各自宅にて銀札引替えを行うよう指示

銀札(藩札)を管轄したのは札所で、札所奉行・目付・役人がいました。梅垣西浦他大庄屋も札所の役を務めていました

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1868年(慶応4)4月19日

野村寺村で大神宮の神符降り、村民「よいじゃないか」と踊り狂う

この時、伊勢と西宮、河守の外宮と氏神の神符が個別の家に降り、村で祝儀を出し祝宴を開きました。2ヶ月後、隣村の百姓が神符をまいたことを白状し野村寺村へ詫びに回っています。

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1836年(天保7)4月21日

藩、拝借米1200俵を築地藩米蔵より貸与する 1組あたり150俵(半高を6月晦日返納)

この拝借米は、天保の飢饉によるもので、伊佐津川河口付近にあった築地米蔵から各組へ組から村へ渡され、難渋者へ割り付けられました。

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1913年(大正2)4月22日

牧野家紀恩碑(舞鶴公園内)除幕式

除幕式は、舞鶴築港全国物産博覧会開会式にあわせて行われ、旧藩主家の牧野子爵を迎えて行われました。「牧野家紀恩碑」の文字は、旧舞鶴藩士で当時海軍中将・男爵の伊藤雋吉のものでした。

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1956年(昭和31)4月23日

永久つり橋の八雲橋(加佐町字中山、同丸田間)完成

八雲橋は、京都府によって架設され、長さ172メートル、幅5メートル、高さ8メートル、日本初の永久つり橋といわれています。

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1771年(明和8)4月24日

惟成、就封すべき年であるけれども暇をたまわらず、明年6月暇下さるべしと仰せられる

なぜ、5代藩主牧野惟成が領地へ帰る許可が出なかったのか不明ですが、同じ日に掛川藩主太田資愛も同じ命を受けています。当時、2人は奏者番で、その後同時期に寺社奉行を務めていました。この年6月に吉宗21回忌が実施され、翌年日光社参も予定(後に延期)されていたためかもしれません。

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1903年(明治36)4月25日

鎮守府が雄島の使用承諾を東、西大浦村長より得る

この時の村の請書には、将来必要があれば無料で許可する、1月~6月は漁業や採藻で雄島付近に出船するので、演習などの場合には通知してほしいとあります。後に、この件は問題化していきます。

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1777年(安永6)4月 

大庄屋、木履御免となる

この御免は、安永年中に城内で大庄屋が足駄で中小姓に礼をした際、足駄を脱ぐよう咎められ口論になったことが発端です。大庄屋は、藩士と同席し能楽拝見を許されたこと、遠方の大庄屋は乗馬で出仕したことを申し立てています

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1853年(嘉永6)4月28日

藩、近年来年柄悪しく藩主も心配につき、この度、思召をもって三か所において、来る5月3~6日、五穀成就祈祷を行うこと、下々も氏神に参詣、有志の者は5月5日に祈祷所へ参詣致すことを達する

天保の飢饉後ですが、前年に鎌鷺の被害が発生しました

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1853年(嘉永6)4月29日

藩、この度西ノ丸普請御用を蒙り莫大の入用相掛るにつき、殊に近年打ち続き年柄悪しく下々難渋の上に、拠なく在方へ4000両御用仰せつけること、上納の儀は3か年の内、相成るだけ当11月晦日までに納め申すべきことを達する

五穀成就祈祷の翌日です

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