5月 まるまる舞鶴 今日は何の日(2)

2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

1946年(昭和21)5月1日

米軍、日本潜水艦呂号500号、68号、伊号121号を舞鶴港沖で爆沈処理

この内、呂号500号は、1943年9月ドイツ海軍のUボートが日本に譲渡されたものです。爆沈当時の新聞にも大西洋水域で活躍した潜水艦と書かれています。

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1742年(寛保2)5月2日

田辺藩札発行され、この日より通用する 銀札額面10匁、1匁、5分、2分、1分

田辺藩札は、元禄7年(1694)から始まりました。寛保2年の藩札は、1匁黄色、2分はヨモギ、1分は赤色と色分けされていました。

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1740年(元文5)5月3日

大川明神社建立につき、常右衛門座が来り、この日より10日間芝居興行する

幕府や藩は、村における芝居を厳しく禁じていました。大川明神社では、このような芝居興行は、天明8年(1788)3月、文政4年(1821)2月にも認可されています。

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1936年(昭和11)5月4日

中舞鶴小学校、本年度より競技部を除き選手制度を廃止

選手制度は、全国各地で、野球や籃球など各種競技で普及しました。大正初期の児童体位向上施策に基づき実施されましたが、制度への批判や時局情勢などから、大会が継続できず衰退しました。

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1891年(明治24)5月5日

海軍省、舞鶴石炭庫新設決定

この石炭庫は倉梯村北吸に設置され、海軍省用地に海軍施設ができた最初となりました。同じ時に鳥羽港相島、奄美大島久慈村にも石炭庫が新築されました。

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1906年(明治39)5月6日

慰魂碑(現舞鶴公園内)除幕式

この慰魂碑は、第1回陸軍記念日の3月10日に建設されました。明治30年に開設された舞鶴要塞砲兵大隊の日露戦争戦没者の武勲をたたえ霊を慰めるため、部隊の有志者が中心となり建てたものです。

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1953年(昭和28)5月7日

第1回舞鶴市戦没者合同慰霊祭(東地域、5、8西地域)

連合国軍の政教分離の指示により、昭和21年12月市町村が実施してきた戦没者の公葬が禁止されました。昭和27年4月の占領終了、独立により慰霊祭が再開されていきます。----

1746年(延享3)5月8日

牧野明成、冨室村徳三郎女小女郎の孝養を賞して、鳥目若干、父にも同1貫文を給する

『田辺孝子伝』によると小女郎は、母に先立たれ年老いた父の面倒をみるために、近隣の洗濯や繭の糸引きをしていました。

雇用先でおいしい食物を貰ったときは自分で食べず、家に持ち帰って父に与えたとあります。父の世話をするため、数々の縁談や後妻の話を断り、孝女として褒賞されています。

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1814年(文化11)5月9日

藩、船改めを実施して船体に焼印を押し、その船の乗組み人数に応じた船運上を定める 船運上は毎暮上納するよう令する。

船約が「船改」と呼ばれ、由良川川上の北有路村の有力百姓が就任し、川口上組大庄屋が兼帯していたこともあります。

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1945年(昭和20)5月10日

陸軍部隊約1200名、府立舞鶴第一中学校校舎を使用

同日明倫小学校では、海軍運輸部徴用工員宿舎となり、学徒勤労動員や学童疎開後の校舎は軍の倉庫や宿舎にあてられました。

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1907年(明治40)5月11日

皇太子(のちの大正天皇)、舞鶴軍港に行啓

皇太子は舞鶴駅に到着後、舞鶴鎮守府の視察、天橋立の巡覧、舞鶴要塞司令部へ行啓し、13日舞鶴港から鳥取へ向かいました。住民は提灯行列、小学校連合運動会、舞鶴港周囲で焚火行列などを行っています。

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1731年(享保16)5月上旬

「丹後国加佐郡寺社町在旧記」(2冊本)が著される

「丹後国加佐郡寺社町在旧記」は、著者不詳ですが庶民風の文章で、各地の産物を記すなど、近世でも早い時期の貴重な地誌といえます

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1794年(寛政6)5月13日

遊行上人来藩する 田辺で7日間逗留

遊行とは、相模国藤沢の時宗総本山清浄光寺の住職が代替わりに全国を回国して歩くことです。幕府から伝馬50疋を徴発できる朱印状がだされました。民衆は上人自らの御札を受けることで、極楽往生が保証されました

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1839年(天保10)5月

藩、城近辺の百姓が身分を忘却し、町方の風俗に押し移る者が多く不埒として、安永3年9月の倹約令を再達する

約66年前の安永3年倹約令は、農民が衣服・居宅・家財類等、外見の飾りを気にかけるため無益の失費が多く、これが困窮の基になると達しました

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1953年(昭和28)5月15日

舞鶴赤十字病院(字倉谷)開院

舞鶴赤十字病院は、西地区への総合病院新設の要望があり、設立されました。日赤にとっても、京都府北部に施設がないことから、誘致に応じました。

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1958年(昭和33)5月16日

舞鶴港振興会発足

舞鶴振興会の会長は、当時の舞鶴市長です。1989年には新しい組織となり、府知事が会長を務めました

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1915年(大正4)5月17日

瀬戸島開鏟紀功碑(丸八江村字和江)除幕式

瀬戸島は、由良川の中島であり、他にも西島や城島がありました。由良川の水運や洪水の対策として除去されていきました。その後、昭和38、39年に、面積が6200平方メートルあった瀬戸島が除去されています

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1895年(明治28)5月18日

加佐郡平和回復祝賀会を舞鶴公園で開く(8500人参加)

日清戦争の戦争祝賀会であり、会場入り口には大アーチをもうけました。旧藩主牧野子爵、福知山大隊司令官、石田郡長と有力者が集まり、烽火・撃剣・相撲などの余興も行われています。

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1865年(慶応元)閏5月19日

藩、将軍進発御供として、藩主去月27日江戸表出馬につき一統承知致すこと、この度の出陣は不容易の儀、一同去月触れ置いた通り諸事相慎み、遊楽事無用、火の元別して入念行き届くよう致すことを達する

この将軍進発は第2次長州征討です。

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1867年(慶応3)5月20日

イギリス船、田辺に入港する

この船、北海測量のため宮津から来港し、船員3人が真倉村口まで出かけました。イギリス公使パークスの属官が指揮したサーペント号は、日本海側での開港場の適地を調査することが目的でした(『福井県史』通史編4)

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1732年(享保17)5月21日

藩、川口中組において蚕改めを実施する

蚕は、享保年中、川口中組も含まれる由良川筋でたくさん飼育され糸綿を売買するとあります。その後、文化年間に奥州の技術を取り入れて、領内の養蚕業は発展していきます。

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1896年(明治29)5月22日

臨時海軍建築部を東京、同支部を舞鶴に置くことに決定

海軍の建築事項は海軍省艦船局建築課の管轄でしたが、経理局第1課に移管し、大規模な外局として臨時海軍建築部が設置されました。部長は海軍の将官級、支部長は海軍大佐と決められました。

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1668年(寛文8)5月23日

牧野親成、高2400石を加増、丹後国加佐郡の内において高3万5000石をもって所替仰せつけられ、田辺藩牧野氏初代藩主となる また、田辺はもと城地なれば城築くべしと仰せつけられる

牧野親成は15年間、京都所司代を務め、田辺藩主となりました。

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1920年(大正9)5月24日

尼港出兵中の舞鶴鎮守府所属海軍部隊、パルチザンに襲撃され全滅

この部隊は、シベリア出兵中、ロシアの黒竜江河口の尼港(ニコライエフスク)の守備隊で、舞鶴鎮守府で編成された無線通信隊でした。海軍40人の他、領事館員・在留邦人60人が犠牲になりました。

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1918年(大正7)5月25日

舞鶴製糸(株)、郡是製糸株式会社に吸収合併され舞鶴工場となる

舞鶴製糸株式会社は、明治11年士族授産として、士族の有志者が発起人となり北田辺に設立しました。社長は旧藩士の安井久米五郎、士族やその子女50人を雇用してはじまりました。

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1945年(昭和20)5月26日

舞鶴市国民義勇隊結成

結成式は26日弥伽宜神社で行われました。男子15歳~60歳、女子17歳~40歳、病気や特別の理由がないものすべてが組織され本土決戦に備えられました。舞鶴市義勇隊は軍港のため、女子の年齢制限が60歳まで引き上げられました。

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1946年(昭和21)5月27日

市内中心部7国民学校、食糧事情悪化のため本日より午前中授業

食糧不足の原因は、戦前のアジア各地からの輸入米が敗戦によって途絶、昭和20年がまれにみる凶作、戦時中の強制供出のため供出が進まない、輸送量の減少などがありました。----

1887年(明治20)5月28日

明倫小学校、幻灯機を購入し社会教育にも意を用いる

明倫校では、各町の惣代を集め幻灯機の使い方や効果を知ってもらい、製糸場や定小屋を借りて2・3日間の連続幻灯会を実施しました。幻灯機を近隣の村にも貸与しています。

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1965年(昭和40)5月29日

総合職業訓練所、舞鶴市に設置決定

この総合職業訓練所は、1967年に上安の旧陸軍練兵場跡に移転し、1981年国により京都職業訓練短期大学校となりました。舞鶴木工職業補導所、舞鶴職業訓練所から改組されました。

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1936年(昭和11)5月30日

舞鶴重砲兵大隊、舞鶴重砲兵連隊へ昇格

明治30年に砲兵大隊として設置され上安久を営舎とし、明治40年に舞鶴重砲兵大隊と改称しました。隊の任務は、舞鶴要塞の防備と防空配備、野戦部隊への転属などでした。その練兵場跡が総合職業訓練所でした

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1965年(昭和40)5月31日

市指定文化財に23件指定(第1次)

第1回の文化財指定は、雲門寺の山門、高倉神社の狛犬、糸井文庫、城屋の揚松明、田辺城址、ウミネコの繁殖地沓島などでした。指定の基盤となったのは、1962年の奈良国立文化財研究所美術工芸室の調査でした。

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