6月 まるまる舞鶴 今日は何の日(2)

2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

1929年(昭和4)6月1日

新舞鶴実業会、新舞鶴駅前に商品陳列館を新設決定

新舞鶴実業会は、明治44年に誕生し、大正11年軍縮により町が衰微した際には新舞鶴港の商港転換に協力しました。翌年、新舞鶴桟橋倉庫株式会社の設立、新米鶴駅からの臨港鉄道の敷設にも尽力します

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1588年(天正16)6月2日

忠興、織田信長の七回忌に当たり、宮津城下に泰巌寺を建立し法事を執り行う(同時、慶長6豊前へ移築)

泰巌寺は豊前小倉に移転後、細川忠興とともに肥後八代へ移り明治に廃寺となります。寺名は、信長の法号の一部「泰巌大居士」に由来しています。

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1865年(慶応元)6月3日

志楽組大庄屋、夜祭・氏神祭礼、鳴物など用いず質素に行いたいと内願したところ、鳴物・客来など慎み、休日参詣は苦しからずとの内意の旨を達する

第2次長州征討のための藩主出馬に関するもので、5月13日夜祭・氏神祭礼見合わせの触が出ました。

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1733年(享保18)6月4日

藩、大庄屋、庄屋中を三ノ丸に召集して、先非を悔い願替えしたことを聞き届け、お咎めのところ向後構いなく願い通り仰せつける旨を申し渡す

藩は百姓側の反省文を提出させることにより、失墜した藩権力や権威を表面上取り繕うかたちを取りました

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1917年(大正6)6月5日

倉梯尋常高等小学校附設女子手芸学校開校式

女子手芸学校は、大正8年4月に廃校となります。その後、大正13年4月新舞鶴女子高等技芸学校が開設され、和裁と手芸を学ぶ学生が、丹後・丹波・若狭から入学しています。こちらは昭和18年まで継続しました

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1933年(昭和8)6月6日

中舞鶴小学校、少年消防隊設置

3年前の3月、明倫小学校に設置されて以来の設置でした。少年消防隊は、防空演習の教練、避難教練にも参加していました。

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1919年(大正8)6月7日

大川神社(岡田下村字大川)府社に昇格

この後、加佐郡内では、1928年(昭和3)9月11日朝代神社(舞鶴町字朝代)、1942年(昭和17)由良神社(由良村)、1944年(昭和19)3月1日白糸浜神社(字浜)・弥加宜神社(字森)が府社に昇格しています。

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1868年(慶応4)6月8日

田辺藩、従前の郷兵を廃止し、新規に郷兵を募集する

元治元年10月21日から5日間、10人程度の足軽募集が行われています。大坂へ出張することが明記されています。今回の募集は、17~36歳に限った新規募集となりました。

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1719年(享保4)6月9日

神崎村西神崎火事 棟数107軒、居家75軒焼失する

田辺藩領内の村では、火事になると領民間の救済する「焼失割」がありました。詳しくは以下を参照ください。

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1942年(昭和17)6月10日

舞鶴海軍病院(東舞鶴市字行永)竣工式

鎮守府への復活、日中戦争による海軍の負傷者増加に対応するため、昭和14年8月に用地を設定し8万2825坪を買収しました。昭和23年国立舞鶴病院に移管され、現在、国立病院機構、舞鶴医療センターとなっています

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1858年(安政5)6月

藩、近ごろ「村省壱人者」や過怠として酒料を出させ飲食したり、若者が私の意趣を差しはさむのは不届とし、風儀がよろしくない六斎仲間や、年越しの節の狐狩りという「がさつ」なものを停止することを達する

狐狩りが藩によって規制されています

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1825年(文政8)6月12日

藩、5月に海辺を見分し大砲仕掛け場を決める。この日、場所(田井、野原、小橋、三浜、瀬崎、千歳、神崎、由良村)を達する

これは文化5年(1808)長崎に侵入したフェートン号による事件を契機とし、文政8年に出された幕府の無二念打払令によるものでした

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1811年(文化8)6月13日

倉谷、福来、上安久、下安久、和田、長浜、余部上、同下村役人中、山城国愛宕神社成徳院に対し、近来諸国の勧化札が多く入り込み、古来の御免札以外は領主に差し止められたので、配札を当年より断る旨通知する

この藩の触は正月に出されました

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1802年(享和2)6月

大庄屋中、近年来、虚無僧多く入り込み不法のことを申して村々庄屋難渋につき、中筋組・川口上組大庄屋が惣代となり出京

大庄屋は、虚無僧の本寺である京明暗寺にでかけ、田辺藩領内を修行留場とする契約を結びました。

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1946年(昭和21)6月15日            

復員庁設置に伴い舞鶴地方復員局、復員庁第二復員局所属となる

舞鶴地方復員局は、昭和20年12月1日舞鶴鎮守府廃止後の後継機関として設置されました。海軍軍人の復員の他、機雷の処理、旧軍物資の処理、傷病恩給などの援護事務を行いました。

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1945年(昭和20)6月16日            

市内中等学校、国民学校(17校)の御真影、池内国民学校奉安殿に移す

太平洋戦争末期となり敵機来襲が頻繁となったため、市街地の学校を中心にとられた措置でした。これ以後、御真影を奉護するため、毎日各校の校長・教頭が順番で当直しています。

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1869年(明治2)6月17日

この日の知藩事表に「舞鶴藩、旧田辺」とあり、田辺藩は藩名が「舞鶴」となる

「舞鶴史話」によれば、舞鶴の名付け親は藩士河村真六で、太政官から紀伊田辺と紛らわしいので改称指示があり、同僚幸山順吉と相談し「笠水」「舞鶴」を提案しました

笠水は公文名の神社名でしたが、藩主牧野家と同姓の笠間藩8万石の牧野家があり、笠間と笠水が混同されるため、格の低い田辺藩牧野家が辞退させられ、舞鶴になりました。

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1945年(昭和20)6月18日

舞鶴海軍工廠、1等駆逐艦初梅竣工(同工廠最後の竣工艦)

初梅は、終戦まで舞鶴鎮守府に所属、10月5日除籍となり、12月1日特別輸送艦となり復員に従事します。その後、昭和22年7月6日賠償艦として中国に引き渡されました。

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1964年(昭和39)6月19日

府、舞鶴市空山防災無線中継所開通

この防災無線中継所は、元舞鶴警備隊空山防空砲台で、同年1月軍転法(旧軍港市転換法)による転換施設として譲渡されました。

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1861年(文久元)6月20日

誠成、江戸におけるフランス人宿舎となった麻布の済海寺、正泉寺、大僧寺警固を仰せつけられる

この済海寺は、フランス国代理公使ドゥ・ベルクールの宿舎・仮公使館で、同日、高田藩にイギリス、館林藩にアメリカ仮公使館の警衛させています。

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1954年(昭和29)6月21日

引揚者慰問協力の市内幼稚園、小中学校、文部大臣感謝状を受領

学校の慰問は、ポスターやはがき、作文・図画の作成や雑誌の回収をはじめ、昭和23年度から交代で、夕方から平地区の援護局へ行って、歌唱・遊戯などの演芸を披露しました。

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1906年(明治39)6月22日

舞鶴区裁判所志楽出張所を新舞鶴出張所と改称

明治23年(1890)11月、宮津治安裁判所舞鶴出張所が舞鶴区裁判所となりました。志楽出張所は、舞鶴警察署志楽分署や郵便局など官公庁の多い市場におかれていました。

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1953年(昭和28)6月23日

戦時中花岡鉱山等で殉難の中国人遺骨慰霊祭、東本願寺舞鶴協会(東仏教会主催)で執行

中国人遺骨560柱が東舞鶴駅に到着し慰霊祭が行われ、市長はじめ各会代表の弔辞があり、後日帰国する中国人とともに送還されました。

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1819年(文政2)6月

近来国所不確かな者が奇妙な療治・効能を申し売薬しているので、猥りに療治を受けてはならない、今回、当地薬種屋が医師の吟味をうけた丸薬・散薬を在々へ広めたいと願い出ており相対売買することを達する

前々から売りに来ている者は除外されました。

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1932年(昭和7)6月25日

舞鶴、新舞鶴、宮津3港、丹後港湾協会を結成

6月19日連合艦隊が舞鶴へ入港し、全町挙げての歓迎で一般民家にも宿舎を割りあて、2407人が宿泊しました。丹後港湾協会はその直後の結成であり、京都府他の後援がありました。

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1879年(明治12)6月26日

青葉神社(青葉山西の峯)の所有につき若狭国大飯郡今寺村と松尾寺の争論起こる

青葉神社は、松尾寺奥の院の本尊十一面観音を祀っていた青葉明神でした。明治11年10月25日、明治政府の廃仏毀釈の余波を受けて、今寺村の人たちに堂宇が破却され、十一面観音は松尾寺にかえりました。

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1913年(大正2)6月27日

新舞鶴町水無月神社、稲荷神社、蛭子神社を合併、白糸浜神社(新舞鶴町養老通敷島角)を創建遷宮式

合併された神社は、旧浜村の稲荷、恵比須堂、水無月明神でした。この合併は舞鶴軍港化に伴う東地区の区画整理に伴うものでした

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1924年(大正13)6月28日

東雲村上東農事共同組合、稲作共同作業始める

同年1月、府農会は農業経営改善(共同経営)奨励金交付規程を定め、4月倉梯村に倉梯村農産物出荷組合もできます。昭和23年には農業会とともに廃止され、代わって農業協同組合が設立されます。

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1900年(明治33)6月29日

加佐郡農会、農具、種苗、肥料の共同購入規程を定める

この年の2月、産業組合法が成立し、信用組合、販売組合、購買組合、生産組合が設定され、各地で産業組合が設立されました。府農会でも肥料の共同購入事業を進めました。

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1954年(昭和29)6月30日

舞鶴市警廃庁式

戦後の占領政策として、警察制度改革が行われ、昭和23年3月、国家警察と自治体警察となりました。自治体警察は市や5000人以上の町村に設置されましたが、非能率・不経済との指摘があり、警察庁と都道府県警察に一本化されました。

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