7月 まるまる舞鶴 今日は何の日(2)

2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

1939年(昭和14)7月1日

丹州時報、橋立新聞、福知山新聞、三丹新日報、新舞鶴時報合併、丹州時報となる

丹州時報は明治36年6月12日舞鶴町で、新舞鶴時報は昭和2年新舞鶴町で両丹日報として創刊されます。両紙は東西地域の購読者・広告主層を二分し共存していました。

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1947年(昭和22)7月2日

現舞鶴市域内の農地改革で、はじめて農地買収行われる

この買収は、政府の計画した2回目のもので(1回目には間に合わず)、買収対価は土地台帳登録の賃貸価格に対して、田40倍、畑は48倍以内、1反歩平均価格は田760円、畑465円となっています。

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1937年(昭和12)7月3日

舞鶴町防護団結成、続いて郡内2町9村に防護団が結成される

団長は町長、橋東・橋西・吉原・四所・中筋・余内の6分団を設置し、団員の中心は消防組員でした。防護団の目的は空襲に備えたもので、灯火管制・防火・防毒・救護が主な任務でした。

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1688年(貞享5)7月4日

幕府、辛皮山論につき大俣村敗訴の裁許を申し渡し、老中、奉行連署の境界線引き絵図を上訴双方に下す

宮津藩領上宮津村との争論は、承応3年(1654)頃からはじまり30年に及び、最初は京極三家が丹後を治めていたため、峰山藩が仲裁に入りました。

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1943年(昭和18)7月5日

市会選挙(定数36人、立候補者54人)

これは舞鶴市と東舞鶴市が5月27日に合併したことに伴う最初の選挙でした。20日の臨時市会で水島彦一郎を議長に選出し、27日の市会で立花一を初代市長に選びました。

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1950年(昭和25)7月6日

柳田市長辞表を提出

市長は東西分離問題による市政混乱の責任をとり辞職しました。この問題は、昭和23年の地方自治法改正により、2年間限定で、戦時中に吸収・編入された住民の投票、知事・議会の議決により区域変更が可能になったためでした

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1569年(永禄12)7月7日

紹巴、文殊堂前より舟にて蛇嶋着、同日暮、下国中の一色藤長に謁する

この日は七夕であったので、里村紹巴は「梶島やいつたか星の手向草」と詠んでいます。蛇嶋城については、「舞鶴の山城44 蛇島城」を参照してください。

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1934年(昭和9)7月8日

海軍機「報国舞要号」献納式(舞鶴防備隊)

この飛行機は、舞鶴要港部管内の市町村や団体・個人からの拠出金によるもので、舞鶴町は各町で寄付金をとりまとめることを決めました。第1回献納式では、各町村民、児童・生徒が参列しました。

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1958年(昭和33)7月9日

舞教組、本日より3日間勤評反対闘争に入ったが足並乱れる

勤評は、昭和31年6月新教育委員会法が公布され、県費負担の教職員の勤務成績の評定を行うものでした。11月愛媛県教委が最初に実施し、これに反対する運動が全国展開しました。

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1959年(昭和34)7月10日

上水道上福井浄水場完成式

昭和20年10月から舞鶴市は軍用水道の施設を管理運営し、昭和28年には旧軍港市転換法に基づき、これら施設は無償譲渡されました。

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1915年(大正4)7月11日

新舞鶴町の人力車夫(53人)、車の貸主に対し賃貸値下げ交渉ストライキ決行(7、13妥結)

ストライキの原因は、自動車や馬車によって乗客が減ったためでした。その後、13日貸主との間に値下げ協定が成立しました。

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1865年(元治2)7月12日

藩、藩主進発・出陣中につき、当盆中仏祭のほか諸事平日の通り、少人数たりとも集会は差し止める旨を達する

盆の自粛は3年連続でした。前年1864年は京の厳しい警衛、自国固め、往来旅人改を指示されたため、1866年は1865年と同様の理由でした。

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1465年(寛正6)7月13日

この頃、春日部村、朝来村の公文職を有する伊賀次良左衛門、若狭小浜の代官職を持ち小浜に在国

伊賀氏は若狭守護一色義範の年寄衆を勤め、若狭以来の一色氏譜代の有力被官でした。明応2年(1493)正月に伊賀次郎左衛門が丹後国内で蜂起しています

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1871年(明治4)7月14日

廃藩置県により、舞鶴藩は舞鶴県となる

この日、新政府は在京の諸藩知事を招集し廃藩置県を宣言しました。261藩が県となったことで、すでに存置していた3府45県とあわせて306県となり、8月から統廃合が進められ、11月に舞鶴県は豊岡県となります

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1928年(昭和3)7月15日

中舞鶴小学校高等科野球チーム、澄宮殿下台覧少年野球試合に出場(東京明治神宮外苑野球場)

このとき中舞鶴小は明石尋常高等小学校と対戦し、2対0で敗れましたが、全国で尋常科・高等科各2校、計4校の選抜であり、少年野球界で話題となりました

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1954年(昭和29)7月16日

新榎トンネル和鶴通洞開通(旧榎トンネル北側)

旧榎トンネルは、明治35年11月に葛トンネル・道芝トンネルとともに開通しました。新榎トンネルは3月31日に開削され、和鶴通洞と命名されます。昭和54年3月補修拡幅し五老トンネルと改称します。

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1946年(昭和21)7月17日

1等巡洋艦八雲解体、飯野産業(株)舞鶴造船所で始まる

八雲は日露戦争直前にドイツで建造され、日本海海戦当時の鋼鉄主力艦でした。その後、練習艦、1等巡洋艦、戦後は特別輸送艦となりました。戦後初の軍艦解体となりました。

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1922年(大正11)7月18日

舞鶴海兵団廃止、兵員は呉、横須賀に収容

海兵団は各府県の徴兵を入団させ兵員養成訓練をし、艦隊乗組員が上陸して居住する場所でした。また軍港防衛や、陸上で戦闘する陸戦隊の根拠地でもありました。

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1600年(慶長5)7月19日

幽斎、八条宮智仁親王に古今相伝の書類を授与するゆえ使者を派遣されたい旨、同宮侍臣へ申し入れる

細川幽斎は、三条西実枝から古今和歌集の語句の解釈に関する秘伝の相伝である古今伝授を受けました。幽斎は、これを神道と結合・発展させました

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1887年(明治20)7月20日

海軍中将仁礼景範ら再び舞鶴湾を視察

仁礼は前年、海軍軍事部長として、軍艦金剛に乗り舞鶴湾を視察しています。明治20年の視察では、一週間にわたり舞鶴と宮津の両方を巡視しました。

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1919年(大正8)7月21日

新舞鶴、余部間鉄道、海軍省(軍港専用線)より鉄道省に移管、中舞鶴線として旅客営業開始(中舞鶴、東門駅設立)

中舞鶴線は、前年11月20日に敷設着工され、大正11年12月新舞鶴から若狭高浜駅が開業します。東門駅は戦後は北吸駅になりました。

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1910年(明治43)7月22日

余部信用組合設立許可

明治33年2月、産業組合法が成立して、全国的に産業組合が設立されていきます。加佐郡内の最初は、明治36年12月の河守上信用組合でした。明治40年には、大日本産業組合中央会、京都府支会も設立され増加していきます。

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1854年(嘉永7)閏7月23日

藩、今回多分の御用途弁金仰せつけ入費が少なくないので、天保13年申達の通り諸向きへの音信は当年より安政5年まで5か年間、年頭1度のみで、その余は差し出し不要と達する

この御用金は江戸城西の丸普請手伝い、ペリー来航警備によるものでした

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1950年(昭和25)7月24日

市内の赤痢患者(同擬似を含む)80人に達し、府舞鶴保健所は防疫対策本部を設ける

舞鶴は国際伝染病侵入の入口になるため、積極的に防疫を行い、対策本部は、食品監視・検査などの班を組織しました。市内の河川は使用・水泳禁止となっています。

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1737年(元文2)7月25日

藩、銀札2分札を発行する

元禄7年からはじまった銀札発行は、享保15年に大坂伊丹屋四郎右衛門が札元となり10匁から1分まで作られました。元文2年は大坂小池が札所となりました。

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1937年(昭和12)7月26日

藤原義江演奏会(舞鶴音楽同好会主催)中止

この年7月7日盧溝橋事件、8月9日第二次上海事変が発生し、全面的な日中戦争となりました。時局にふさわしくないとして演奏会が中止され、前年始まったばかりの舞鶴港まつり(8月1日)も中止されました。

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1945年(昭和20)7月27日

明倫国民学校、分散教育開始

7月に入り空襲は増え臨時放課が行われました。25日京都府からの連絡により、舞鶴市内の学校は登校を臨時停止し、学徒部隊・班に分かれ教育訓練を開始します。会場は竹屋集会所、朝代神社、見樹寺、製氷会社などでした

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1859年(安政6)7月28日

世上で悪病が流行し、朝代社で祈祷を行う

前年長崎へ来航したアメリカ船から持ち込まれたコレラが全国に流行しました。田辺藩では幕府の「暴瀉病」の救済策を配布し、人にうつりやすい病気なので、病人のある国へ他所稼しないよう触を出しています

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1946年(昭和21)7月29日

引揚船V76号、コロ島より舞鶴入港(西港第二埠頭)、以後引揚船東港(平地区)に入る

引揚船の内、24日V24号にコレラ患者が2名発生するなど、上陸禁止や隔離が行われました。このV76号でも、コレラの懸念があるとして2週間の隔離が実施されています。

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1953年(昭和28)7月30日

西舞鶴高等学校、第35回全国高校野球選手権大会京都府予選で初優勝

当時の地方大会は、京都と滋賀を対象とした京津大会と呼ばれ、両府県の優勝校が対戦しました。西舞鶴高校は八日市高校と対戦し、7対3で準優勝でした。

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1952年(昭和27)7月31日

旧舞鶴海軍館(字溝尻)譲与決定

舞鶴海軍館は、舞鶴鎮守府復活、紀元2600年記念事業の一環として、昭和18年5月27日の海軍記念日に公開されました。大講堂は映写設備を完備し、陳列館は従軍画家の記録画、マレー沖海戦などが飾られました。

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