8月 まるまる舞鶴 今日は何の日(2)

2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

1936年(昭和11)8月1日

第11回オリンピック、ベルリン大会開催、8、5新舞鶴町出身大江季雄、棒高跳に出場し日章旗(3位)を掲げる

この時、2位となった西田修平選手と記録が同じであったため、銀・銅メダルを等分して合成し、友情のメダルとして有名になりました。

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1933年(昭和8)8月2日

舞鶴要港部、冠島の海軍用地(同島南端平地)立入禁止を発表

海軍のこの措置により、天然記念物オオミズナギドリの調査以外の立ち入りが禁止されます。地元漁民は老人島神社への信仰や生業が制限されました。

新舞鶴町で薬局経営のかたわら郷土史研究を行っていた山本文顕は、新舞鶴新報に「丹後の海の詩 名勝雄島考」他を寄稿し、舞鶴海軍当局を論難します。

詳しくは以下の論考を参照ください

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1927年(昭和2)8月3日

舞鶴町立図書館独立移転(元舞鶴税務署跡)開館式(有本国蔵寄贈)

明倫小学校にあった舞鶴町立図書館は、手狭で一般閲覧者が利用しにくい状況でした。税務署が空き家になったので、有本氏は大蔵省から敷地と建物を21136円で払い下げ、町へ寄贈しました

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1940年(昭和15)8月4日

舞鶴市、東舞鶴市、加佐郡小学校高等科児童拓殖訓練開催(4日間、岡田下小学校)

この年、高等科児童に対し満蒙開拓青少年義勇軍に関する拓務訓練開始の拓務省通達があり、8月の夏休みを利用して行われました。翌年も児童拓殖訓練が開催されました。

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1866年(慶応2)8月5日

誠成、安芸口征長軍応援のため海路大坂を出発する 翌日、幕府、石見口応援のため松江に向うよう更令

『維新史料綱要』によると、この命令は大坂で、当時の老中、備中松山藩士板倉勝静によって出された命令でした。

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1195年(建久6)8月6日

丹後国志楽荘と伊根荘で、地頭の後藤左衛門尉基清、濫妨を働いたとして幕府に訴えられる

「吾妻鏡」による記述です。後藤は、治承寿永の乱に頼朝方として参加し、屋島の合戦により御家人となりました。頼朝の推挙無しに京都で任官したため東国下向を禁じられました。

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1938年(昭和13)8月7日

舞鶴純正愛市連盟結成

この連盟は、市制施行後の市会議員選挙の粛正運動を推進するためで、選挙外にある男女青年団員・婦人会員により組織されました。宣言文には、舞鶴市は山陰第一の港都、総合都市であり、大舞鶴市の建設に寄与するとあります。

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1860年(万延元)8月

諸所でコロリという病気に多くの人患う

この時、東吉原町内の世話方や役方からコロリ(コレラ)が平静になるよう吉坂稲荷へ祈祷依頼、神主は東稲荷社にて二夜三日の祈祷を行いました。

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1951年(昭和26)8月9日              

運輸省、舞鶴港を外国貿易船入港港湾に指定

戦後の引き揚げに伴い、昭和20年11月舞鶴引揚援護局が置かれ、引揚者の検疫が実施されました。昭和26年8月、一般貿易港として検疫港となり、神戸検疫所の所管として業務が開始されました。

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1942年(昭和17)8月10日            

大日本婦人会舞鶴市支部結成

これまで、文部省所管の大日本連合婦人会、厚生省所管の愛国婦人会、陸海軍省指導の大日本国防婦人会がありました。昭和15年新体制運動の展開により、三団体統合が進められ、17年2月大日本婦人会が発会しました。

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1358年(延文3)8月11日              

余戸里、沙弥昌皎寄進状によって先師国師(夢窓疎石)の報恩、長安寺殿の追善ならびに卵塔修造料所として天龍寺雲居庵に寄進され、ここに余戸里と天竜寺との結びつきが始まる

寄進者の昌皎は法名で、弾正少弼尊宣法師ともいいました。

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1622年(元和8)8月12日

高知没する。遺領は嫡子高広が高7万8175石、庶子高三に高3万5000石、養子高通に高1万石となり、宮津・田辺・峰山藩が成立

高知は51歳で死去しますが、場所は京都、田辺、宮津説があり、宮津城は田辺籠城で破却しているので田辺と推定されています

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1918年(大正7)8月13日

余部町、新舞鶴町で米騒動起る

午後8時半、米価暴騰のため、海軍職工薬3000名は、海軍工廠酒保や、米穀商を襲い店舗を破壊し、白米を20銭で売るよう強買しました。全体の損害は約7600円でした。

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1838年(天保9)8月14日

町方疫病流行容易に終息せず、朝代社において鎮疫祭を行う

15日には年寄・肝煎は上下をつけ参詣、組頭は袴・羽織を着用し、町方はすべて参詣となりました。14日臨時待、15日日尽、16日円隆寺で鎮災消除の祈祷を行いました。

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1575年(天正3)8月15日

一色氏および矢野、大嶋、桜井氏ら丹後国衆、信長の越前国一向一揆討伐に海路出陣、浦々湊々を焼き払う

「信長公記」によると、柴田、羽柴、明智の陸上3万騎、海上は丹後国衆以外に、粟屋越中・逸見駿河等の若狭衆を加えて数百艘が攻め入りました

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1931年(昭和6)8月16日

新舞鶴町設浮島運動場落成式

この浮島運動場(グラウンド)では、加佐郡連合青年団東部地区の運動会が開催されました。当時の青年団は、高等小学校卒業から満25歳までの男子青年を構成員とし、郡内で27団体、1930人の団員がいました。

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1881年(明治14)8月17日

加佐郡172町村に戸長役場を置く(単独65、連合14戸長役場)

明治12年郡区町村編制法により、郡内の12区・23町・149村が7組(後に8組)に統合されました。その後、区町村会法などが実施され、組との区域違いが発生し、旧来の町村区画を復活させます

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1935年(昭和10)8月18日

海軍大演習の舞鶴要港部対抗演習に関連し、要港部、要塞司令部指導のもと3舞鶴町、12か村防空演習実施(本日より3日間)

明倫小学校の日誌によると、19日月曜、尋常5年生以上が登校し、学校防空に関する講話を聞いた後、避難演習を行ったとあります。

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1348年(貞和4)8月19日

光厳上皇、山城六波羅密寺円海の訴えに依り、丹後国大内荘預所職の事につき大日姫宮に問う

大内荘預所職は東寺寄進分もありましたが、この六波羅密寺分はそれとは別でした。1351年(観応2)まで続く争論となりましたが、詳細は文書からは不明です

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1918年(大正7)8月20日

豪雨(雨量241.8mm)、由良川流域増水はん濫、住家91戸浸水、道路・堤防の破損85か所、9・24第2回はん濫、浸水家屋151戸、道路・堤防破損16か所

この豪雨の間、9月14日には久美浜町で有史以来の大暴風となり、浸水2802戸の被害となりました。

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1876年(明治9)8月21日

豊岡県廃止により、丹後国5郡と丹波国天田郡は京都府に移管され、宮津支庁に属する

同日飾磨県も廃止され、豊岡県管下の但馬・丹波国氷上郡・多紀郡は兵庫県に合併されました。京都府では、園部支庁、宮津支庁が置かれ、行政の拠点となりました。

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1439年(永享11)8月22日

このころ丹後国内の「国物惣(物騒)」のため、当知行が有名無実化する

この時期、室町幕府6代将軍足利義教と守護勢力との抗争が続き影響していたと思われます。翌年、丹後守護一色義貫は、大和において義教の命により殺害されます。

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1581年(天正9)8月23日

鳥取城下湊川に到着、毛利水軍と戦う

中国攻めの一環で、織田信長は天正8年9月羽柴秀吉に鳥取城の攻略を指令しました。細川藤孝は信長の命を受け、重臣の松井康之・有吉立行ら1500名の士卒と大船を派遣し、味方の城へ兵糧を入れました。

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1907年(明治40)8月24日

豪雨のため由良川、与保呂川、高野川はじめ郡内各地の河川はん濫、大被害を受ける(最高水位、岡田下村字志高11.5m)

この大水害のため、由良川筋の桑飼上・下、志高、丸田東の川沿いの集落全戸は、山際の安全な場所に移転しました。

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1953年(昭和28)8月25日

若狭湾接収反対委員会結成(若狭湾の米空軍演習場使用反対)

若狭湾の上空で空中射撃演習場を設置するもので、全国的な基地反対闘争もあり、舞教組、漁業組合、市議会も反対の請願を行いました。閣議決定後、翌年3~4月末に演習が実施されました

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1892年(明治25)8月26日

府下1市18郡の有志ら、京都府鉄道大会で京鶴鉄道等の期成を決める

同年鉄道敷設法が公布され、全国で3011キロの路線が決定され、測量調査が行われました。この中に、舞鶴から京都に至る京鶴鉄道も含まれていました。

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1650年(慶安3)8月28日

由良川大洪水起こる 福知山流れという

この地名がついた洪水は、延宝4年(1676)9月の「大俣流れ」があります。いずれも元禄16年(1703)8月の大洪水は福知山流れ以来、享保13年(1728)大俣流れの洪水に同じと、後の災害の基準にもなりました。

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1950年(昭和25)8月29日

金剛院塔婆(三重塔)など14件、重要文化財に指定

金剛院塔婆は、室町時代の木造こけら葺きの三重塔です。大正6年(1917)6月に古社寺保存法により特別保護建造物に指定されました。昭和24年に解体修理され、相輪が新補され完全に復旧されます。

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1950年(昭和25)8月30日

地労協、全官公労協、市議会解散請求中止を発表

この解散請求は、東西分離問題に関するもので、府会で否決されましたが、市政運営上、問題が残されていました。市議会が総辞職し全市民協力の市政運営を求め、8月5日解散請求署名収集を始めました

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1956年(昭和31)8月31日

市内初のアーケード(大門商店街)完成

東地区では、大門商店街をはじめ1957年に八島通り、1958年には三条通りのアーケードが完成し、多くの買い物客を集めました。西地区では、1964年に広小路、1977年には真名井商店街に完成します。

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