2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
1788年(天明8)9月1日
吉原町大火 町全焼、およそ竃270軒、棟数800軒ほど焼失する
吉原町は猟師町ともよばれ、竹屋町・平野屋町差配を西吉原、丹波町・魚屋町差配を東吉原といいました。猟師町は享保12年(1727)の大火後、下安久の一部へ移転を命じられました
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1854年(嘉永7)9月2日
藩、江戸にて多分の借財訳付け不容易の儀につき、出金は町在へ預けたことでもあり(中略)在方出金の者にも納得致させたい勘弁もあって、大庄屋一両人の上京を仰せつける
3月には在町は5000両を10年間にわたり調達することを請け負っていました
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1850年(嘉永3)9月3日
領内大洪水、凶作、10月町方より難渋人多く出て毎夜ものもらいする
前年から米価の高値が続き、藩は12から9月まで凶年非常用上納銀を免除しましたが、10月から再開しました。その上、この大洪水で米価が131匁と高値となり、町の難渋者が増加します
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1959年(昭和34)9月4日
市内の用途地域、準防火地域を指定
都市の不燃化を図るために、市街地中心部217ヘクタールが指定されました。昭和50年には、防火地域も指定され、準防火地域は263ヘクタールに拡大しました。
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1934年(昭和9)9月5日
連合艦隊、舞鶴へ入港(7日間停泊)
この時、由良神社には、5日軍艦由良艦長大佐春日篤他、全乗員、第2潜水戦隊司令官少将和波豊、7日由良水泳部少尉中村苫夫、11日舞鶴要港部参謀長中佐森徳治、12日海軍大佐松野省三が参拝しました。
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1952年(昭和27)9月6日
日本板硝子(株)舞鶴工場(字大波下)操業開始
戦中ガラス産業は衰退しましたが、戦後、戦災市街地・建物の復興により需要が増大しました。昭和24年大阪市に本社を置く日本板硝子(株)は、全国30カ所の候補の中から舞鶴市を選定しました。
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1941年(昭和16)9月7日
東舞鶴中学校、海仁会へ防空壕掘開作業出動(11日間)
同年2月、文部省は、青少年学徒食料飼料等増産運動実施要項を通達し、国策に協力する実践的教育として年30日は作業にあて授業として認めました。8月には学校報国隊を結成するように指示しました
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1582年(天正10)9月8日
忠興、一色氏を宮津城に誘殺する。次いで一色氏居城弓木城を攻めてこれを奪取する(丹後守護職家一色氏の滅亡)
忠興は、8月上洛し秀吉に対面します。留守中の宮津城を奪取しようと一色義有は出撃しますが、忠興が帰国したので撤退します。
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1927年(昭和2)9月9日
中筋小学校水泳用プール(長さ50m、幅20m)開き競泳大会
このプールは、村民の体位向上を願う村長の英断で作られました。プール開きの日は、明倫・新舞鶴・余内・青井小学校などが競泳大会に参加しました。
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1938年(昭和13)9月10日
川北正太郎、初代舞鶴市長に就任
川北は大正8年中筋村長を務め、円満な経済・道徳の発達のため、村民に貯金を奨励し16万円にもなりました。川北村長は、村民の結婚や出産の慶事に50銭の貯金券を贈り、これを基にして記念貯金をすすめていました
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1928年(昭和3)9月11日
朝代神社(舞鶴町字朝代)府社に昇格
昭和13年8月1日、舞鶴市の市制施行を祝って、川北臨時市長以下市民有志が朝代神社へ参拝し、先賢者に今日の喜びを奉告し、明倫校講堂で記念式を開催しています。
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1820年(文政3)9月12日
池之内組大庄屋、囲蔵の貯穀につき、村々へ蔵入れ米・稗の見込み石数を取り調べるよう達する
池之内組は、同年用材確保の後、6月に囲蔵建築のため大工小屋や入用の梁・竹を村々から借用し、木挽き小屋を造り、村人足を動員し、11月初め蔵普請が終わりました。
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1876年(明治9)9月13日
府、行政区画変更し大・小区制改め、加佐郡第14・第15大区を廃止、12区として正副区長を置く
8月加佐郡は豊岡県から京都府に移管され、郡内は1~12区に分割されました。
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1830年(文政13)9月14日
藩、在方にて他所大工を雇う儀はかねて禁止、近年緩みがあるが今後も雇用禁止。また、器用にて少々小普請いたす者で大工に紛らわしい者などの雇用も禁じる。
引土町に大工が多く、明和3年(1766)城下町大工67人中19人が居住していました。
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1945年(昭和20)9月15日
連合国軍総司令部の船腹補充策により、舞鶴海軍工廠にも復員用艦船の修理作業の担当が許可される
当時極端に不足した船の補充作として、終戦時施工中だった新造船工事の続行とともに、損傷船舶の緊急理が許可されます。
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1876年(明治9)9月16日
府、区、戸長の公撰規則令達
規則によると、戸長の入札(選挙)は、その土地に在籍する戸主で、不動産を所有するものに限られました。ただ、士族などで田畑を所持しないものは、屋敷地か1、2歩のわずかな土地でも許可されています。
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1954年(昭和29)9月17日
岡田上村を除く加佐郡北部5か村、再び舞鶴市編入を申入れ
編入は最初6ヶ村でしたが、岡田上村が12日申入れを撤回します。市議会の編入決議に無理があり東西対決が激化する、都市と農村は生活・生業が違い、川筋6ヶ村の合併が自然等との理由でした
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1854年(嘉永7)9月18日
藩、近ごろ「近入」と唱え入札でよくない商いをする者があると聞く。博奕と同じなので、以後きっと停止と達する
この他、賭的、賭碁や賭将棋を禁止していました。百姓が的場を設置することは許可しましたが、勝負は寛政期から禁じています
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1931年(昭和6)9月19日
加佐郡町村長会、国防講演会開催(加佐郡公会堂)
この時、京都の第16師団長山本中将が2時間にわたり、極東問題・満蒙問題・国防問題について講演しました。ちょうど前日18日、満洲事変の発端となる鉄道爆破事件、柳条湖事件が起こりました。
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1927年(昭和2)9月20日
海舞鶴駅構内に貨物積卸用テルファー設置
テルファーとは、貨物などを運ぶ空中ケーブルのクレーンです。現在は登録有形文化財になっている清水港テルファークレーンが有名です。このテルファーも海舞鶴駅と同じく、清水港駅に昭和3年設置されました。
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1846年(弘化3)①、1858年(安政5)②9月21日
藩蔵米初値段、1石につき銀82匁①、銀121匁②
田辺領内の農業を評価していた、若狭伊藤正作の『農業蒙訓』には、田辺藩の蔵米を扱う小浜商人の話として、田辺の米は10年後でも虫がつかないほどの技術があると書かれています
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1841年(天保12)9月22日
藩、桐実値段につき所々の相場を承知し、各大庄屋ごと3、4通のほか町方油絞り職、商人も入札を差し出すよう達する
藩は桐実を国産化するため他国売却を禁じました。入札の結果、油絞り方へ入札価格より3匁引き上げて買うように指示しました。
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1669年(寛文9)9月23日
親成、田辺城の普請願を幕府に差し出す
寛文8年5月、牧野親成は、将軍家綱から田辺を拝領し、築城の許可を得ました。寛文9年閏10月19日には、幕府の奉書を請けて、城の再築を開始しました。
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1901年(明治34)9月24日
心種園碑(現舞鶴公園内)除幕式
この日、旧藩主の細川侯爵や牧野子爵を迎え除幕式を挙行しました。他にも細川幽斎の和歌の色紙を掲げ、古今伝授の松で文台を据え和歌の披講が行われました。また、町では昼夜花火などの余興で賑わいました。
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1918年(大正7)9月25日
舞鶴鎮守府に「臨時海軍派遣隊」設置
この、臨時海軍派遣隊は、シベリア出兵によるもので、同時に設置された臨時海軍無線通信隊とともに第3艦隊に附属しました。第3艦隊は舞鶴鎮守府に所属する軍艦香取・鹿島・三笠などが中心となりました。
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1945年(昭和20)9月26日
市内各町内会、防空壕、待避壕の取壊し作業開始
8月22日、内務省はすべての防空措置を解除しました。撤去した木材は、市民の燃料にされましたが、撤去作業は人手不足のため昭和22年春頃までかかりました。
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1964年(昭和39)9月27日
東京オリンピック聖火、綾部市より引継ぎ、28日福井県へ送る
27日夕方、聖火は市役所に到着し、海上自衛隊舞鶴音楽隊の演奏や婦人会によりオリンピック音頭などが行われました。聖火は市長室で一夜を明かし、吉坂峠で福井県へ渡されました。
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1937年(昭和12)9月28日
三丹商工連合会、電灯電力料金値下げ陳情書を通信省等に送付
昭和3年以降、京都府下・兵庫県の一部で京都電灯株式会社を相手取り値下げ運動が広まりました。特に三丹(丹波・丹後・但馬)では実業協会が推進し各町に期成同盟会が結成されました
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1673年(延宝元)9月29日
親成、致仕の請いを許される 日光参詣ののち落髪、哲山と称する。牧野冨成、父親成の致仕により襲封、牧野氏第2代藩主となる
牧野親成は田辺藩初代藩主として、田辺城の城門や櫓を再建し、特技者等の召し抱えにより家臣団の基礎を確立しました
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1899年(明治32)9月30日
第1回加佐郡会選挙、28人選出
郡は明治19年の地方官官制で行政区画と定められたが、京都府ではながく郡制が発足しなかった。明治32年政府は府県制・郡制を新しく施行しなおし、7月1日ようやく京都府も郡制を施行し加佐郡の郡制も発足した。
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