2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
--
1965年(昭和40)11月1日
市内16農協合併、舞鶴農業協同組合設立
明治33年2月に農会、3月に産業組合が誕生し、昭和18年には農業会ができました。
昭和22年11月に「農業協同組合法」が制定され、農業会は解散し農協が誕生しました。
--
1909年(明治42)11月2日
岡田下村字志高耕地整理工事着工(大正2、2、15完了)
この耕地整理は14705円の予算により、面積が76町から89町と増加しました。この事業は町村農会が実施しましたが、京都府下では加佐郡内の農会が活発に活動し、果樹園や植林事業を行っています。
--
1934年(昭和9)11月3日
大日本国防婦人会舞鶴町分会発会式
国防婦人会は、満州事変後の昭和7年に大阪で発足し、陸軍の監督・後援を受けて発展しました。入退営者の送迎、将兵の武運長久、傷痍軍人家族や戦病死者遺族の後援や慰問の活動を行っています。
--
1721年(享保6)11月4日
代官増井弥五右衛門、大坂天満岡村喜八らが丹後国栗田湊より播磨国高砂浦まで川船通路のことを願い出たため、川通りを見分、この日、宮津を出立する
11月7日には、宮津湊の名主から増井に対して栗田湊の常湊指定は問題ないと返答がありました。
--
1946年(昭和21)11月5日
市、市勢要覧発行
これ以降、市政の様子がわかるように発行されます。この時の世帯数18903世帯、農家は3862戸、全体の20%、専業農家1871戸、農家の48%でした。昭和55年には、世帯数29509世帯、農家は4160戸、全体の14%、専業農家390戸、農家の9%となりました。
--
1915年(大正4)11月6日
東大浦村、府税賦課規則改正に伴う同村の部落等級制改正案に対する紛争解決
この解決には、郡長が調停案を示しました。東大浦村では、合併以来、役場の位置など村民の不満があり、明治29年伝染病まん延した際の避病院の位置で表面化します。
--
1903年(明治36)11月7日
官設舞鶴鉄道敷設のため舞鶴町字南田辺・余内村及び倉梯村の一部に土地収用法適用の旨、府に通知
この法は、明治22年7月に公布され、国防・兵事、政府・市町村の公用、学校・病院、鉄道・電信・測候所の建設などに関する土地が対象となりました。
--
1907年(明治40)11月8日
舞鶴海軍工廠造機部製缶工場中心に同盟罷業発生
この同盟罷業は、工場内の賃上げ要求のため約500人が一斉に休業します。主な7人が検挙され、職階の希望なども理由とわかります。舞鶴海軍工廠内の歴史のなかで最初で最後の同盟罷業といわれています
--
1949年(昭和24)11月9日
飯野産業(株)舞鶴造船所、1337人の大量整理を発表
この大量整理は、同年3月の経済安定政策ドッジ・ラインによるものでした。まず飯野産業舞鶴車両製作所で全員解雇が発表され最終的に625人の解雇、造船所は調停の結果1037人の解雇となりました
--
1940年(昭和15)11月10日
各市、村で紀元2600年奉祝式
この日、明倫小学校では、午前9時半から校庭で奉祝式が行われ、尋常5年生以上が参列し、式後に市内を行進しました。中舞鶴小学校では、奉祝式後に祝賀旗行列を行っています。
--
1872年(明治5)11月11日
豊岡県宮津支庁開庁、加佐郡はこの管轄下に入る
明治4年11月の府県の統廃合により、豊岡県が設置されました。宮津支庁ができるまでの11月から翌5年2月までは舞鶴局、それ以降、舞鶴出張局が置かれました。
--
1898年(明治31)11月
臨時海軍建築部長、与保呂水源池地質水量調査につき海軍大臣に建議
与保呂水源池は、京都府が与保呂村小字曲り渕蛇切岩に量水所を設置し試験を行い、平均水位3寸、用水量一昼夜1500トンでした。周辺の田の灌漑への影響も検討するようにとしています
--
1871年(明治4)11月13日
舞鶴城大手門、大内門の番所閉鎖となり城内の通行自由となる
城門は京極期に動いており、大手門は城内南側から、城下町に対する西側北寄りに変化しました。また東側の南寄りに大内門があり、馬出しが設けられていました。
--
1940年(昭和15)11月14日
舞鶴市役所、京都師団参謀長、連隊区司令官等の指示により軍人入退営時の習慣廃止を通達
派手になっていた送迎行事の自粛で、門飾や旗幟を禁止し国旗とする、酒食を伴う宴の禁止、入営服装は新調せず訓練服・青年団服・軍服を着用するなどです
--
1945年(昭和20)11月15日
進駐軍、舞鶴海軍の諸施設接収を終了
接収のための進駐軍は姫路から舞鶴入りし、最大800人となりました。また、衣料や食料品、木材の一部は内務省へ移管され、内務省は、資材の保管事務処理のため旧鎮守府内に出張所を開設しました。
--
1913年(大正2)11月16日
舞鶴海軍工廠造船、造機部連合の舞鶴初の野球チーム、府立第四(宮津)中学チームと海兵団練兵所で初試合
このチームは、春に有志により編成され、月2、3回練習していました。この時の試合では、練習不足もあり、1対6で第四中学の勝利となりました
--
1745年(延享2)11月
藩、京通い日雇い持ちを日雇頭の支配に委ねることに改め、町方からの京登せ諸荷物は日雇頭に支配さす また、京都に日雇いの指定宿を設け、田辺向け用件に応じられるようにする
京通いとは、田辺と京都の間で飛脚を走らせ荷物を運んだものでした。
--
1937年(昭和12)11月
加佐郡町村長会、郡内軍務公用者家族の慰恤金を募り、各町村に贈る
この時期から地元の戦死傷者が多くなり町村葬も増えました。慰恤金は、郡内各1戸あたり30銭、町村長1人2円、町村吏員50銭を出し、11月末には計5800円となり各町村に割り当てました
--
1906年(明治39)11月
東大浦村字田井、ブリ大敷網を移入し2統布設
大敷網は明治25年、宮崎県の日高亀市、栄三郎父子により考案され、鰤漁業は画期的に発展しました。田井は、日高栄三郎から導入し、成生は、同年12月、高知県人窪添慶吉によって導入されました。
--
1679年(延宝7)11月20日
宮津藩上宮津三か村、辛皮山論につき大俣村を幕府へ訴える
争論の発端は承応3年(1654)ともいわれ、当時丹後3藩は京極一族であり、峰山藩主が調停に入って論所を留山にすることで一時的に収まりました。延宝7年はこの争論が再燃したものです。
--
1902年(明治35)11月21日
舞鶴鎮守府附近新市街工事完成、新市街(倉梯村字浜ほか)命名
この時、新市街の通り名には、戦艦・巡洋艦など艦種別、建造年代別に軍艦の名前が用いられ、八雲、富士、八島、三笠などとなりました。中心部は一条から九条に分けました。
--
1902年(明治35)11月22日
舞鶴鎮守府道路開通式
昨日に引き続き、新市街の道路、橋梁、隧道、河川改修などすべてをまとめて開通式が行われました。大森京都府知事、東郷舞鶴鎮守府長官、田辺内務省土木局長など多数の来賓が出席しました。
--
1915年(大正4)11月23日
加佐郡東、中部小学校(16校)、御大典奉祝記念連合運動会開催(舞鶴海兵団練兵所)
翌年11月、立太子礼奉祝連合運動会が開催され、以後、加佐郡小学校連合運動会として、舞鶴海兵団練兵場、新舞鶴町三条海岸などで、昭和13年まで毎年実施されました
--
1930年(昭和5)11月24日
府、新舞鶴町振興のため新舞鶴港桟橋陸揚施設建設を計画
当時の佐上府知事は、軍縮で沈滞した新舞鶴町のために、数年前に5000円で建設した桟橋に続いて、朝鮮・外軌道航路定期船の大型化に対応するため、陸揚施設建設費3万円を計上しました。
--
1965年(昭和40)11月25日
府、西大浦地区、字千歳、大丹生、瀬崎、三浜、府営千歳開発パイロット事業大規模みかん園造成着工
瀬崎では江戸中期に紀州系のミカンが栽培され、越前の三国湊に移出していた記録もあります。このパイロット事業で62ヘクタールが造成されました
--
1862年(文久2)11月26日
藩、銀札差支えにつき、当月、来月中、金貨、銀札取り交ぜて通用するよう達する
田辺藩では、幕府の貨幣、特に少額貨幣が流通しないように、また、他藩の藩札の流通を禁止していました。そのため藩札が不足し、金貨利用を許可しました。
--
1962年(昭和37)11月27日
飯野重工業(株)、860人の人員整理を含む会社再建案を組合に提示
昭和31~33年、造船業は好景気となり、飯野重工業も受注量の増大を受けて設備を増強しました。しかし、工事量が消化できず採算は悪化し、昭和37年に経営不振が表面化しました。
--
1938年(昭和13)11月
舞鶴防備隊移転新営のため東舞鶴市字長浜五森地区住民立退き
五森にあった13戸、21世帯、その後、高倉神社付近の民家も潜水艦基地新設のため移転しました。このため、長浜地区は加津良の一部を除いて、海に面した部分はすべて海軍用地となりました。
--
1813年(文化10)11月
藩、領民に当藩財政の困窮を訴え、その対応施策などについて心付くことがあれば申し出るよう達する
文化4年以来、砂入り多く、年々不作により収納が減り、物入りが続き借財も多く、御救も立ちがたい状況とあります。
--
1829年(文政12)11月
本行寺、本堂大破につき修復助成のため、当月中7日間の夕べ、座敷浄瑠璃興行を奉行所に願い出る
本行寺では、天明5年(1785)8月に操り芝居、寛政8年(1796)12月に噺(落語)にも勧進興行が行われています。