2024年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に
---
1945年(昭和20)12月1日
舞鶴海軍工廠、第二復員省舞鶴地方復員局管業部となる
損傷が少ない舞鶴は、横須賀・呉・佐世保の旧工廠が戦災を受けて機能を失ったので、戦傷艦艇の修理を一手に引き受けました。昭和21年1月初旬までに、舞鶴では70隻の修理を終えて就航しました。
---
1959年(昭和34)12月2日
有本国蔵翁銅像再建除幕式
有本翁の銅像は、昭和12年4月12日の公会堂の竣功式にあわせて除幕式がおこなわれました。公会堂へは自身の書画・骨董を売却し11万1900円の寄付を行っています。太平洋戦争時の金属回収でコンクリート製となりました。
---
1894年(明治27)12月3日
四所村、陸海軍軍人家族恤救規則を村会で決定
同年にはじまった日清戦争に対するもので、戦死者の遺族や出征兵士の留守宅の困窮者に義捐金を送りました。郡内各地でも、戦死者の遺族慰問資金を拠出した人もいました。
---
1952年(昭和27)12月4日
1級国道27号(船井郡須知町、舞鶴市、福井県間)認定
政令によって、国道は1級と2級に分けられ、阪鶴道路、大手通が27号線になりました。この年40号まで認定され、57号まで付番されます。国道の等級は、昭和34年に廃止され、一般国道となります。
---
1950年(昭和25)12月5日
市議会選挙(立候補者数110人、36人の新議員決定)
この選挙は、戦後の東西分離問題に関したものです。まず全官公舞鶴地協などが市議会のリコールを開始し、その後、市連合婦人会代表からも議会リコールが出て選挙が実施され分離問題も終息しました。
---
1847年(弘化4)12月6日
藩、来る春より他所札取扱いを厳しく差し止める旨達する
他所札、いわゆる田辺藩領以外の藩札の利用は、文化11年3月や文政3年3月など頻繁に禁止されています。他所札が田辺領内に流入していたことは、他領との流通が増加していたことを示しています。
---
1864年(元治元)12月7日
藩、3分銀切手を元治2年2月限りで通用差し止める旨達する
この3分銀切手は、文久2年12月に銀札が払底したことを受けて発行されたものです。銀札払底の理由として、銀札を大量に蓄え、高利で両替を行い利益を得る者がいたことが挙げられています。
---
1946年(昭和21)12月8日
シベリア引揚第1船大久丸、恵山丸ナホトカから舞鶴入港
ソ連からの引き揚げは、米ソ協定により毎月5万人の送還が取り決められ、大久丸には旧陸海軍将兵と少数の一般邦人ら2555人、恵山丸には2445人が乗船し帰国しました。
---
1924年(大正13)12月9日
内務省、冠島を「オオミズナギドリ繁殖地」として天然記念物に指定
オオミズナギドリの繁殖地として、全国初の指定となりました。日本近海が生活の場の海洋鳥で沿岸には近づきません。昭和に入り岩手県三貫島や北海道松前大島など指定されます。
---
1864年(元治元)12月10日
藩、野州辺脱走の賊徒、北国筋より京地の方へ落ち行くやも計り難く、取りあえず一番手の半隊を吉坂辺に差し出し、なお探索の趣により領内口々へ人数差し向ける旨を達する
天狗党は、尊攘の志を朝廷に訴えるべく越前まで来ました。
---
1355年(文和4)12月11日
師阿弥陀仏、漆原道場において臨阿弥陀仏に見取られながら往生する
時宗の橋立道場万福寺住持の師阿弥陀仏は、貞和2年(1346)から10年間住持を務めます。この時、後任の臨阿弥陀仏に見取られたと、宮津市妙立寺厨子内部の墨書から判明します。
---
1918年(大正7)12月12日
宮津区裁判所、新舞鶴町、余部町米騒動の被起訴者47名に判決
この米騒動は、8月13日に海軍職工約3000名が、新舞鶴町、余部町で起こし、海軍工廠酒保中江出張所他、米穀商の店舗を破壊しました。また白米の強買を行い、7600円の損害が出ました。
---
1849年(嘉永2)12月13日
池之内組大庄屋、当年が不作であったため、翌3年1か年間に限った倹約規定を作って村々に達する
この倹約令では、皮鼻緒の表打ち下駄や雪駄を履くことが規制されています。これらは自給ではなく購入商品であり、百姓の生活水準の向上がわかります。
---
1875年(明治8)12月14日
豊岡県、本籍と住居地との分離、現住地への戸籍移動を容認する
明治に入り移動が自由になると、経済発展で移住者が増えました。明治5年に開始された戸籍制度では、登録地と居住地の不一致について、その把握が困難となりました。
---
1935年(昭和10)12月15日
郷土部隊(福知山歩兵第二十連隊)、新舞鶴港より渡満
連隊は14日に来鶴し一部は民家に宿泊し、舞鶴町や近郊の小学校生徒も迎えや見送りに参加しました。前年4月の渡満時には、明倫小学校で慰問用絵葉書を準備し生徒代表が軍隊本部へ届けています。
---
1914年(大正3)12月16日
府会、舞鶴港利用促進の意見書を知事に提出
京都府は、明治41年から大正2年まで、5ヶ年継続の舞鶴港湾改修事業を進めました。舞鶴港の欠点の一つであった、伊佐津川の土砂が流れ込み海面が浅くなり、船舶の繋留を阻害していました。そのため伊佐津川尻の付け替えを行っています。
---
1948年(昭和23)12月17日
市役所位置条例制定(字北吸無番地)
昭和18年、舞鶴市と東舞鶴市が合併した際、旧舞鶴市は合併条件として西地域に市役所を設置するよう要求しました。しかし、両市の融和策として中間地点である中舞鶴に設置され昭和23年に北吸へ移転しました。
---
1952年(昭和27)12月18日
舞鶴分離期成同盟会解散
前年4月、東西分離問題の解決条件となった市の機構改革が実施され、北吸庁舎に会計課・総務部・文教部・建設部、北田辺庁舎に民生部・経済部が置かれ二分しました。そして5月、期成同盟会は存続か解散かを協議しました。
---
749年(天平勝宝元)12月19日
加佐郡内、椋橋部乙理の奴津麻呂、漆君三使の婢袁太須伎女ら、丹後国内の奴婢4人が東大寺へ寄進される
椋橋部乙理は、加佐郡大領など郡司級の豪族と考えられています。津麻呂は27歳、袁太須伎女(おたすきめ)は20歳と正倉院文書にあります。
---
1922年(大正11)12月20日
新舞鶴、若狭高浜間鉄道開通(敦鶴線全通し北陸本線、山陰本線連絡)
この年、軍縮のため要港部への格下げが発表され、対策として11月に新舞鶴港開港が許可されます。この時、新舞鶴、高浜間9マイルが完成し、敦舞線が10年8ヶ月かけて全通しました。
---
1817年(文化14)12月21日
藩、風邪、時疫の熱病にかかった者を、狐狸の仕業として高所から突き落したり煙でいぶしたりする者がいる由であるが、右体の者は勿論、その様なことを申し伝える者も処罰する旨達する
藩は医療政策の一環として、迷信まがいの行為を統制しています。
---
1944年(昭和19)12月22日
空襲警報発令、舞鶴上空にB29七機来襲、児童非常帰宅、投弾なし
アメリカ軍の爆撃機B29の日本本土への空襲は、昭和19年6月16日北九州が初めてでした。11月24日マリアナ基地からB29爆撃機が東京を初空襲し、本土空襲が本格化していきます。
---
1347年(貞和3)12月23日
散位某、田辺郷八幡宮毎月神楽料として、田1町を寄進する
この八幡宮は、曹洞宗桂林寺(当時は洞林寺)の境内鎮守で、嘉禎元年(1235)の創建です。康永4年(1345)にも左兵衛尉某が、田辺郷八田村に毎月1日の朔幣祭礼の料田2反を寄進しました。
---
1914年(大正3)12月24日
舞鶴海軍工廠第二船渠完成入渠式
舞鶴軍港で最大の構築物である第二船渠は、明治38年10月に開削工事が始まり、明治41年4月から築造工事に着手し、約9年をかけて完成しました。これは、明治37年7月に完成した第一船渠に続くものでした。
---
1920年(大正9)12月25日
国道特20号(新舞鶴町、東大浦村間)認可
同年4月道路法の改正があり、新舞鶴町から由良川、福知山町をへて京都市にいたる国道34号、新舞鶴町から志楽村への国道35号が認可されました。国道特とは軍用国道で、特20号は成生岬砲台と連絡していました。
---
1924年(大正13)12月26日
海軍共済組合舞鶴病院、内務省令による看護婦養成所指定・同助産婦養成所認可を受ける
この看護婦養成所は、1910年(明治43)3月4日、舞鶴海軍工廠職工共済会病院で設置認可され、8月に設置されます。
---
1520年(永正17)12月27日
若狭守護武田元信、被官の白井清胤に加佐郡水真村の年貢・諸成物・寺社等の知行を安堵する
永正13年から若狭の逸見や丹後の延永氏など反主流派と守護の戦いが続きました。由良川河口付近は武田によって占拠され、白井氏の知行地となっていました。
---
1485年(文明17)12月28日
丹後守護一色義直の勢、岡田荘を押領する
前年、丹後守護一色義春が19歳の若さで早世し、父義直が守護に再任されました。この押領は、公家甘露寺親長の「親長卿記」によるものです。この年9月13日には、丹後国内の常在光寺領を押領しています。
---
1860年(万延元)12月29日
藩、時節柄宜しからず下々の難渋を何とか扱い遣わしたいが心底に任せず、よっていささかの品を遣わすとの藩主の御意を伝え、勝手向き差し詰り藩主が重代の品まで売り払うよう仰せつけられているとして、厚い仁恵の程を有難く存じ銘々の産業に力を尽すよう達する
この年、これらが流行し、不作、米価高値と続きました。
---
1949年(昭和24)12月30日
飯野産業(株)労使調停妥結(1037人解雇)、正式調印
労使調停は妥結したものの、不況の影響による給料の遅配は続きました。6月分は7月に一律1000円支給となるなど、その後は平均2ヶ月遅れとなり、社員の生活はますます苦しくなりました。
---
1857年(安政4)12月晦日
誠成、幕府に国体不容易の時節ゆえ断然改革の機会にこれあるべく、万国普通の法例に改革あらせられること、諸外国との交通の儀は国辱と存じないことを上書する
幕府はアメリカ大統領親書に対して諸大名に意見を求め、藩主牧野誠成は上書しました。
---