2月 まるまる舞鶴 今日は何の日(2)

2025年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に


2月1日
1942年(昭和17)
大和紡績(株)舞鶴人絹工場操業休止

昭和13年3月、喜多で「日出紡績舞鶴第一工場」が操業を開始しました。昭和17年に「大和紡績」となるも、2月に第二次企業整備のため休止。8月には舞鶴海軍工廠に借り上げられ、木造船の製造が行われました。

2月2日
1712年(正徳2)
牧野成央、加藤泰恒、牧野英成、銀町より芝口門までの防火を命じられる

田辺藩2代藩主牧野英成は2年前の宝永7年、江戸参向の前関白鷹司兼熈の馳走役、大洲藩3代藩主加藤泰恒は、正徳元年、家綱33回忌で妙法院宮尭延法親王の馳走役を務めています。

2月3日
1937年(昭和12)
満州移民講演会並びに映画会開催(明倫小学校)

昭和7年に満州国が建国され、同9年に帝政を実施。11月には日本から武装移民団416人が出発しました。昭和13年には満蒙開拓青少年義勇軍の編成打ち合わせや講話が行われています。

2月4日
1946年(昭和21)
市内各学校、御真影を京都府庁へ返還

前年12月、連合国軍司令部の政教分離指令を受け、昭和21年1月15日、京都府は御真影・奉安殿・英霊室・郷土室の神道的色彩を除去するよう指示しました。これにより、官公庁や学校の神棚が撤去されました。

2月5日
1904年(明治37)
舞鶴鎮守府長官、海軍予備役下士卒充員召集を命じる

同年1月22日、防御海面令が発布され、指定海面では陸海軍以外の船舶の通行が制限されました。2月10日にはロシアへの宣戦の詔勅が下され、日露戦争が始まりました。

2月6日
1864年(文久4)
志楽組大庄屋、宗門改めのため役人が11日より出郷、13日は判形なので心得るよう庄屋に通知、判形人は髪月代、衣類を質素清潔にし、大酒飲み赤面体で出ないよう注意を促す

宗門改の注意事項で、休日や商人来訪を制限するなどの対応も取られました。

2月7日
1955年(昭和30)
市議会、財政再建調査特別委員会(全議員)設置

戦後復興で多額の赤字を抱えていた舞鶴市は、市議会に財政再建計画案を提出し、2月15日に了承されました。再建期間は昭和30~36年度の7年間で、単年度赤字を出さない均衡予算を目標としました。

2月8日
1850年(嘉永3)
藩、藩医が京都より持ち帰った痘苗を諸医が受けて行っている接種を奨励し出生の子に施すよう達する

天然痘予防のため、前年にオランダ商館医がもたらした痘苗が長崎から京都、田辺へと伝わりました。しかし新医療への不安もあり人々は消極的でした。

2月9日
1948年(昭和23)
米極東海軍司令官、舞鶴港を連合国への積出港に指定

戦後、舞鶴港は沈没艦船や機雷など利用に問題がありましたが復興が進められ、国に陳情し同年1月に開港指定を受けます。さらに2月、知事・市長・港湾関係者らによる舞鶴港理事会が設置されました。

2月10日
1931年(昭和6)
海軍労働組合連盟、加盟団体代表を舞鶴に集め、人員整理の最少化、退職金増額運動を起こす

昭和5年のロンドン海軍軍縮条約により、海軍は年度末までに全職工の4分の1にあたる1万人の整理を内定し、2月には工廠長会議で原案作成が進められました。

2月11日
1449年(文安6)
志楽荘春日部村一宮大森社における宮座の取り決めの「志楽荘一宮置文」が定められる

宮座は、座衆と呼ばれる上層農民の集団で、禰宜職には村の最長老である一老が就き、次の祝は二老が務めました。給田として8斗代の田1反が与えられていました。

2月12日
1949年(昭和24)
舞鶴港港湾区域変更(金ヶ岬、博奕岬線以内の東、西両港合せ舞鶴港とする)

運輸省の告示により、舞鶴港の名称が変更されました。4月5日、京都府公報で各市町村長に通知され、「東舞鶴」の項目が削除され、第二種重要港湾「舞鶴港」となりました。

2月13日
1577年(天正5)
丹後国衆、紀伊国雑賀、根来の一向一揆討伐のため、信長に随従して京都を出発する
藤孝、石山本願寺に助力する畠山貞政、紀伊国雑賀、根来一揆を退治のため和泉国へ攻め入る

丹後国衆は、新将軍を擁した信長の命により、将軍第造営の出役や奉仕、統一戦争への従軍を課されました。こうして次第に信長に服属し、被官化していきました。

2月14日
1690年(元禄3)
竜勝寺の本尊阿弥陀如来坐像(市指定文化財)、京都の仏工渡部玄蕃により修理される

この阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作で、恵心僧都の作と伝えられています。元禄3年の修理の際には、京都西陣・清浄禅庵の究嶽和尚が願主となりました。

2月15日
1875年(明治8)
豊岡県、町村の用掛事務扶助のため、惣代人をおく

豊岡県は地租改正に伴い、収穫高や地価の決定が重要な作業となりました。このため、大区には改正調総代人、小区には下調掛、村には総代人が置かれ、実施が進められました。

2月16日
1949年(昭和24)
阪鶴道路(大阪・舞鶴間)完遂期成同盟会結成

この道路は産業道路として整備が進められ、山家村の肥後橋などが鉄橋に架け替えられました。その後、昭和27年の政令で一級国道27号線に統合され、昭和34年に全面舗装化されました。

2月17日
1778年(安永7)
藩、江戸藩邸全焼につき、在方へ御用金1300両を課する

前年9月、5代藩主・惟成は幕府の奏者番から寺社奉行加役に就任しました。翌年3月、藩主在任中の方針として、操り芝居の興行は許可制とする一方、相撲や富興行は禁止されました。

2月18日
1937年(昭和12)
上水道工事揚水場(岡田上村字桑飼下)起工式(舞鶴町、日出紡織(株)共同経営)

この上水道は、工場用水と町内の一般給水をまかなうため、由良川を水源に計画されました。しかし、戦時統制による資材難で完成せず、最終的に軍に買収されました。

2月19日
1642年(寛永19)
徒頭牧野親成、浅草観音堂出火にあたり、御宮へ一番にはせつけ勅額をはじめ神宝を取り出す

観音堂は、徳川家光を願主として寛永12年に再建され、同19年の火事で焼失。その後、慶安2年に再建され、昭和20年の東京大空襲まで約300年間存続しました。

2月20日
1846年(弘化3)
藩では、在方の本家や稲小屋などの建物に瓦を上げる際は願い出て指図に従う定めであった。しかし、庇などの瓦葺きは対応が区々であったため、改革後はこれについても願い出るよう達する。

城下町に比べて在方の瓦は厳しく規制されました。

2月21日
1864年(文久4)
藩、大砲鋳造入用につき古銅類買い上げるので、不用の品早々取り調べ、役人方に集め置き郡役所へ案内するよう達する

藩の御用で大砲を手がけていた引土村の金屋六左衛門は、前年5月にフランス筒2挺を完成させ、その後も各種大砲7挺を鋳造しました。

2月22日
1943年(昭和18)
舞鶴、東舞鶴両市長、府知事に合併決定を報告

20日舞鶴市長と舞鶴鎮守府参謀長が京都府庁を訪れ、市会協議会での合併決定を受け、知事に合併斡旋を依頼しました。22日には府庁の要請で、舞鶴・東舞鶴市の市長、議長、副議長らが上京しました。

2月23日
1352年(正平7年)
志楽荘河部村地頭職、足利義詮の御内書によって醍醐寺三宝院賢俊に安堵される

河部村は、足利義満時代の応永6年(1399)頃の醍醐寺の所領目録に記録が見られないことから、南北朝時代に醍醐寺の支配が失われたと考えられます。

2月(詳細日不明)
1813年(文化10)
藩、村々の百姓・水呑・懐者・買立(飼立)・地ノ者・潰者などの唱え方、取扱い等を書記して差し出すよう達する

同じ2月、村の勘定帳面を百姓が閲覧したい場合、5か年分を庄屋宅で見せるよう指示するなど、新たな農村政策が打ち出されていました。

2月25日
1900年(明治33)
舞鶴水雷団開庁

この時期、水雷技術が発達し、防御用の敷設機雷や攻撃用の魚形水雷が導入され、水雷戦術も確立されました。舞鶴水雷団は鎮守府開庁に先立ち設立され、呉鎮守府に所属し、水雷敷設隊と水雷艦隊で構成されていました。

2月26日
1314年(正和3)
六波羅探題、関東の命を受け矢部孫次郎入道と堤五郎を大内荘に派遣、地頭代以下の輩が正舜と共謀して濫防狼藉を働くことを停止する

大内荘の雑掌道円が、地頭を朝廷に訴え、前年4月伏見上皇の院宣が幕府に送られ、5月に幕府の御教書が出されました。

2月27日
835年(承和2)
丹後国の人、従八位上久美公全氏、時統宿祢の姓を賜る 伊枳速日命の子孫である

『続日本後紀』によると、5年後の承和7年、時統宿祢全氏と諸兄など20人は、本居を変えて右京二条二坊に貫附されています。久美郷の人と思われます。

2月28日
1922年(大正11)
臨時加佐郡会、郡有財産・営造物の処分につき審議

大正10年に郡制廃止法が公布され、12年4月に施行。郡立高等女学校や蚕業学校の府立移管が課題となりましたが、郡会が郡有財産をすべて寄付することで移管が実現しました。


2月(詳細日不明)
1820年(文政3)
藩、各町年寄に対して社倉を設け、米穀を貯蔵し非常の場合に備えるよう命じる

藩は、建設費用として米100俵と材木や作料相当の米を下げ渡しました。不足分は、町役人が120匁を掛けて18人講を立てました。貯穀は身上相応の者が御蔵米を買い取っています。

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