寛政6年の干魃と雨乞い

 江戸時代、長く雨が降らない「干魃」は、地域社会全体に影響を及ぼす災害であった。田辺藩領の伊佐津村に残る「御用日記」には、こうした干魃に際して村人がどのように対応したか詳しく記されている。ここでは、寛政6年(1794)の記録を手がかりに、当時の干魃と雨乞いの様子をみていきたい。

1  知恩院での二夜三日の祈祷

 最初の事例は、寛政6年6月15日のことである。この時、あまりにも長く日照りが続いたため、翌16日申の上刻(午後4時頃)より、大庄屋の組合である倉谷組と伊佐津組が申し合わせて、知恩院において二夜三日のあいだ、雨乞いと五穀成就の祈祷を願うこととした。そのため、精進潔斎を行い、衣服を改めて袴を持参のうえ、割り当てのとおり遅れることなく堂内に交替で参拝するよう定められている。

 祈祷の当番割は、初日が申刻から丑刻(午後4時~午前2時頃)までを引土の大庄屋・源三郎と孫介、続く丑刻から卯刻(午前2時~6時頃)までを京田の六右衛門と六三郎が担当した。二日目の卯刻から午刻(午前6時~正午頃)は城屋の作左衛門と白杉の庄左衛門、午刻から酉刻(正午~午後6時頃)は再び源三郎・孫介が勤めており、一巡している。倉谷組と伊佐津組の大庄屋や庄屋が交替で知恩院へ行き、参拝の当番にあたっていた。当番では、大庄屋・代庄屋ともに弁当を持参するよう指示されている。知恩院は円隆寺の本坊であり、城下町の町人が正月・五月・九月の節句には住民一同で参拝するなど、地域信仰の中心の一つであった。

 この祈祷は、知恩院参拝だけでなく村の人にも周知され、二夜三日の祈祷の間、それぞれ精進を行い、心を込めて願をかけるようにと指示が出された。また、庄屋は年寄や百姓を連れて、自由に参詣するよう触が出されている。

2  水無月神社での龍神祭と「御砂」の配布

 この年の干魃は8月まで続き、今度は水無月神社で祈祷が行われた。大庄屋から、8月10日亥刻(午後10時頃)に「最近の旱魃のため、本日より二夜三日、五穀成就の祈祷を行う」との知らせがあった。さらに、明11日の暮れ時より九ツ時(午前0時頃)まで、藩の命により水無月神社において龍神祭が実施されることになったため、村人にも知らせるよう指示が出された。庄屋達は暮六ツ時(午後6時頃)までに大庄屋宅へ集まり、全員そろって参詣することとされた。なお、百姓のうち信心の厚い者は自由に参詣してよいとのことである。くれぐれも時間を間違えず参詣するよう厳重に触れられている。今回は、両組ではなく藩全体で実施された祈祷であったと考えられる。

 そして8月14日には、つぎのような「御砂」が配布された。今回の雨乞い・五穀成就の祈祷にあたり、朝代神社の玖津見日向より御砂を組内へ送られた。各村1つずつ頂戴し、村内で順に回して用いるようにとのことである。なお、この御砂は害虫除けにも効果があるとされ、稲作はもちろん、菜や大根にまで塗るとよいとの触が廻された。干魃によって作物の力が弱まり、害虫被害が懸念されたため、御砂の配布が行われたと思われる。

3 種籾の確保、領内の状況

 その後、9月中旬の収穫期には、組内の種籾の総量を66石3斗とするよう藩から指示があった。しかし当年の大干魃のため、喜多村では早稲・晩稲ともに旱魃で焼けつき収穫できなかった。そのため、組全体の掛り高の籾は差し引くこととされ、干魃による被害を組内で控除し扶助している。伊佐津村は5石6斗を差し出し、そのうち1石6斗は早田用の籾であった。この籾は「御種籾」、すなわち御用の種籾であり、どの稲の籾であるか札を付けて差し出すよう命じられていることから、藩の指示による囲籾用のものであったと考えられる。

 この年は、6月2日から8月17日までの75日間、大日照りが続いたと田村家文書にも記録されており、領内全域で干魃に悩まされていたことがわかる(『舞鶴市史』年表編)。雨が少ないためか火事も多く、6月7日五ツ時(午前8時頃)には円隆寺町で出火し50軒が焼失、6月9日九ツ時(午前0時頃)には城内三ノ丸近辺で出火し17軒が焼失している。干魃後であるが、12月29日、本行寺町(引土新町)で出火し、桂林寺門前から本行寺まで両側家数26軒が焼失したとある。

 このように、伊佐津村の記録からは、田辺領内における干魃の際、領民と領主が祈祷を行い、信仰によって危機に対応した状況がうかがえる。

参考文献

舞鶴市史編さん委員会『舞鶴市史・年表編』舞鶴市役所、1994年。

出典 「御用日記附覚帳」(川北家文書1)、京都府立京都学・歴彩館所蔵

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