江戸時代、結婚・養子縁組・出奉公など、人別の移動に際しては檀那寺の宗判を添えた「人別送り状」を移転先へ出すことが義務付けられていた。特に奉公人の身元保証書は「請状」と呼ばれ、第三者が「請人」となって奉公人の身元を保証する必要があった。
「寛政五年伊佐津村御用日記(以下、御用日記)」には、寛政4年(1792)6月、四方文治一家が伊佐津村に移転する際に作成された以下の請状の覚がある。
請状之覚
四方文治
同家内共
右之者いさつ村致住居ニ付私へ請判相頼、此者事者上林十倉村出生ニ而慥成者ニ御座候段、請判仕候、然上ハ此者ニ付何等之義致出来候而も私罷出急度埒明、村方江少も御難懸申間敷候、為後日仍如件
寛政四壬子年六月 伊佐津村
小三郎判
村御役人様
覚
仕方文治
同家内共
右之者共此度いさつ村ニ致居住候得共、及此後ニ御村方ゟ戻シ被成度時節者何時ニ而も私方江引取可申候、其節少も致違背間敷候、為後日仍而如件
寛政四壬子年六月 竹屋町道具屋
平左衛門判
両御役人中様
前者の「請状之覚」では、文治の依頼によって伊佐津村小三郎が請人となっており、文治が上林庄十倉村出身の者で身元が確かであること、もし何か問題が起きた場合は小三郎が対処し、村方には迷惑をかけないことが記されている。
後者の「覚」では、竹屋町道具屋平左衛門が請人となっており、もし今後文治の身元を戻したい場合には平左衛門がその身元引受人になることが約束されている。当時、竹屋町(現舞鶴市竹屋)は全国の商品流通圏の中の一市場として藩内外の物資を集散し港町として栄え、大商人も多く居住し城下町の中心地であった。「道具屋」という屋号を名乗る平左衛門も竹屋町の商人で、文治の奉公先か、あるいは奉公人の差配をする口入屋であったと考えられる。
前年に作成された請状が寛政5年の「御用日記」に記された経緯は明らかでなく、いずれの史料も請状の典型的な例ではあるものの、小三郎と平左衛門の2人によって四方文治一家の身元が保証されている点は興味深い。
参考文献
舞鶴市史編さん委員会『舞鶴市史・通史編(上)』舞鶴市役所、1993年、1002-1011頁。
日本国語大辞典 ジャパンナレッジ版 https://japanknowledge.com/library/(2023年3月2日最終閲覧)。
出典
「寛政五年伊佐津村御用日記」