青谷山を巡る山論~伊佐津村vs福来村・倉谷村~

 食料・燃料・肥料・建築用材などの多くを林野から得ていた江戸時代の人々にとって、集落や耕地の外延部に広がる林野は生活に欠かすことのできない資源の宝庫であった。江戸時代には一つの村あるいは複数の村々で林野を共同所有・利用することが一般的で、これらの林野は「入会地」と呼ばれた。入会地に対する権利は必ずしも対等平等ではなく、人々は入会地やその他の林野にかかる権利を巡ってしばしば対立することもあった。江戸時代における林野は、村々にとって共同の場でもあるのと同時に、対立の場でもあったのである。

 田辺藩では藩直轄の森林・藪として立山44ヶ所、立藪471ヶ所を設営していた。
 「寛政五年伊佐津村御用日記」によれば、寛政3年(1791)4月、立山のひとつである今田村(現舞鶴市今田)青谷山で肥草苅りの権利を巡り、伊佐津村と福来村・倉谷村との間で山論が起きた。伊佐津村は以前からの規則に従って青谷山で肥草・薪を採集していたが、福来村が新法を決めて青谷山への山道を差し止めた。その旨を倉谷山の者が伊佐津村役人の元へ伝えに来たが伊佐津村側が納得するはずもなく、伊佐津村役人は福来・倉谷両村の役人と立ち会って議論したが、両村は山道の差し止めをやめなかった。伊佐津村は肥草が必要な時期まで少しも猶予が無かったため13人の者が青谷山へ肥草を苅りに行ったが、帰村する道中で50人程度の倉谷村の者が待ち伏せし、荷物に取り懸かったり槍などを振り回したりして伊佐津村が運んでいた肥草を撒き散らした。

 以上が伊佐津村と福来・倉谷両村との間で起きた青谷山を巡る山論の発端である。伊佐津村は倉谷村による妨害を受けた際、「ここで抵抗しては後日に正当な理由を述べられない」と思ってその場は我慢し、帰村した後に「我々は以前からの規則によって青谷山に立ち入っているのに、このように狼藉を働かれては堪らない。どうか奉行所よりこれまで通り支障ないよう福来・倉谷両村に仰せ付けてほしい」と訴え出ている。
 戦国時代から江戸時代前期にかけて、林野を巡る村同士の争いが起きた際には実力行使によって自村の権益を守る「自力救済」が行われていたが、それは村人たちに多大な身体的犠牲と経済的負担を背負わせるものであったため、次第に訴訟・裁判が紛争解決の中心的手段となっていった。青谷山での山論において、伊佐津村からの訴訟に対して奉行所がどのように対応したのかは不明だが、伊佐津村は倉谷村の横暴に無抵抗を貫き、あくまで自分たちは以前からの規則を守ってきたということを主張することで裁判を有利に進めようとしていたことがわかる。

参考文献
舞鶴市史編さん委員会『舞鶴市史・通史編(上)』舞鶴市役所、1993年、814-821頁。
渡辺尚志『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』草思社、2017年。

出典「寛政五年伊佐津村御用日記」
   奉願口上之覚
一今田村地之内、青谷山之儀ハ先規ゟいさつ村肥草薪等尾入谷入致相弁来候所、当年新法ニ福来村地之内、山道差留メ申趣倉谷村ゟ使を以申来り候、難得其意儀ニ付、去ル廿三日両村役人共立会論談仕候得共、訳合相済不申然共差懸り候肥草之時節少も日延不相成義ニ付、右之場所肥草苅ニ参り申所、倉谷村ゟ五十人斗り一流(一統カ)ニ致伏岐伊佐津村之者拾三人之荷江一荷ニ三人五人宛鎗抔を振廻し取懸り、肥草拾三荷理無尽ニ切觧撒散し、甚以心外之事ニ候得共、手向ひ致候而者後日ニ申訳難相立儀与相心得、漸鎗棒蓑尋拾ひ持帰り申候、尤先規ゟ入来候場所ケ様ニ狼藉致候儀、甚以難渋之次第、何卒御上之御慈悲を以是迄の通り彼是無御座候様被為 仰付被下候ハ丶難有候、奉致候、已上
  寛政三年辛亥年四月   いさつ村年寄
                太右衛門
              同村庄や
                藤右衛門
              同
                久大夫
   御奉行様

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