田辺藩の倹約令

 江戸時代、百姓たちが贅沢な生活によって窮乏し、年貢の未進・不納を来すことのないように、幕藩は百姓が自給自足の質素な生活を営み、田畑の耕作に精励することを命じた。

 「寛政五年伊佐津村御用日記(以下、御用日記)」のうち、寛政5年(1793)6月27日の廻状では「城内において日傘をさしている者がいるが、御家老や御手医(藩主付の医者)以外の者が日傘をさすのは身分不相応である。宝暦9年(1759)・明和3年(1766)に出した倹約令を守らず、聞き流しているのか」とあり、田辺藩においてもしばしば領内の百姓に対して倹約令が出されていたことがわかる。この廻状では他にも、最近は寺院の僧侶でも身分不相応な振る舞いをする者がおり、また、商人や草刈りなどをする百姓が城内で日笠を身に着けることも不埒であるので、村役人はよくよく注意するように、と命じている。倹約令に背く者がいれば村役人の落度であるとし、村役人の監視のもと、倹約令の徹底や身分序列の順守が図られていたことがわかる。

 さて、実は6月の廻状の中に見られる宝暦9年倹約令に関しては「御用日記」に写があるため、その具体的な内容がわかる。「御用日記」の2月の記述によれば、「此節大庄屋初庄屋共新役多」ため、その者たちに改めて倹約令の内容を周知させるために宝暦9年倹約令が引用された。宝暦9年倹約令では、①百姓は藩役人や藩士に対して礼儀厚く振る舞うこと、②もし村々で我侭を言って村役人の指示に従わない者がいれば遠慮なく申し出ること、③不実な旅人や怪しい巡礼者、駕籠担ぎ賃をねだり取る者もいると聞き及び不届きであるから、以後はきっと罰すること、④ただし、旅人であっても帯刀している武士に見える者と会った時は無礼がないように気を付けること、などが注意されている。③の巡礼者とは、西国三十三ヶ所の巡礼者を指すのだろう。また、倹約令では「是又先達而申付置候通」との文言があることから、宝暦9年以前にもたびたび倹約令が出され、村役人交代などの折に触れて繰り返し引用することで、百姓への徹底した周知が図られたのだろう。

参考文献
舞鶴市史編さん委員会『舞鶴市史・通史編(上)』、舞鶴市役所、1993年、907-909頁。

出典「寛政五年伊佐津村御用日記」
   大庄屋江
在方之者共御城内徘徊仕候拙者不申及、御家中の衆中江出合候ハ丶かふり物抔早速取之片付礼儀厚可仕候、其外途中何方ニおゐても行合之礼儀者不申及、近見渡シ見及之所ニ而も如在之挙動仕間鋪候風俗を嗜不礼不作法無之様可仕段者、先達而追々申聞候事ニ候得者如何相心得候哉、不行届趣ニ相見江不埒千万ニ候、役人共江之心得も甚いふかしく、都而被仰出候儀を軽々敷相心得候様之趣ニ至候而者差当に身之上甚大切之事ニ候、是又先達而申付置候通組下役人之差引ニも難参、我意ヲ立手剛キ者も有之候ハ丶其段無遠慮可申出候、右体之者雖有之見逃シ差置、外より相聞沙汰於有之者幅触之趣急度役人之落度ニ可申付候、畢竟御政道有之候而御下ニ致安堵住居仕候義者不法理不尽之儀御糺、貴賤上下之次第作法も相立候所有之ニ付而之儀ニ候得者、夫々之礼儀作法を相立候義者人道之常ニ而候、段々申付候上其次第も不行届、以来無礼之者も有之ハ急度相咎、則其村役人江相渡明可申付候、且又一通之旅人江対し候而も不実差支之義者致間鋪候者勿論之儀ニ候之所、身怪キ順((ママ))礼其外旅人之体を見立渡し専或者駕籠算賃銭等之儀も事六ヶ鋪申掛ねたり取候様之趣相聞元甚悪度人情不届千万ニ候、一体御領分之風俗不宜様聞元之所も有之儀、已来左様之不実成儀於仕ニ者急度御咎メ可被仰付候、殊更旅人たりとも帯刀を致し全武士与見懸候者江出合候ハ丶片付儀を調無礼ケ間鋪義無之様可相心得候、此段末々迄得与人別ニ申付、越度無之様可相心得候事
  卯 七月

宝暦九巳卯年年被仰出候次第、此節大庄屋初庄屋共新役多ニも候間程又心得違無之様及沙汰候、并郷中江御用ニ付罷出候役人江対シ不敬之儀無之様相意得可申候、此已後不礼筋相聞候節者一段重ク御咎メ有之候間、左様相心得参申可事
  丑ノ二月

   廻状
御城内ニ而日傘さし候者、御家老中様御手医之外者不相成儀、宝暦九卯年、明和三戌年ニも被仰出候趣相流レ候哉、近キ頃者寺院之内ニも心得違ひも有之候哉之趣ニも相聞候、且又百姓之儀者日笠等も御城内ニ而者可致遠慮之処、是等之趣も不埒千万不行届事ニ候、此度被仰出候儀ニ而者無之候へ共、以来心得違無是様惣寺院へも向寄之村役人ゟ相達候様、岡田御氏ゟ被仰出候
右之通りニ被仰出候間、村々御承知之上御申付可有之候、尤商人并草苅等御門内ニ而日笠着申候儀ハ急度相不申間、行届キ申候様急度御申付、且亦か様ニ被仰出候上不心得之者有是候へ者、役人の上越度ニ被仰付候得者笠之御申持聞可被成候、已上
  丑ノ六月廿七日

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