宗門改めとは、江戸時代にキリスト教禁圧のために幕府によって採用された制度である。寛文4年(1664)、幕府は諸藩に対し宗門改め役人を設置して、毎年宗門改めを執行することを命じ、「宗門改帳」を作成させた。
田辺藩では毎年2月ないし閏2月に藩庁が郡奉行・目付・代官ら3~8名からなる宗門改め役人を在方へ派遣し、改めを行っていた。田辺藩では、まず事前に各村の庄屋が村内各戸ごとの全家族名・年齢、および五人組を書記した「宗門改帳」2冊を作成して大庄屋へ届けさせた。
「寛政五年伊佐津村御用日記(以下、御用日記)」からは寛政5年(1793)の宗門改めの流れがわかる。2月3日、伊佐津村が属する中筋組では、事前に大庄屋から「例之通り諸帳面早々御出シ可被成」と知らせがあり、11日に宗門改めが実施されている。「御用日記」には改めの詳細な内容は記されていないが、『舞鶴市史・通史編(上)』によれば、大庄屋が各庄屋を招集して「宗門改帳」を読み合わせ点検の上、村控え分を残して1月末ないし2月初旬に藩庁へ提出したとされる。宗門改めは大庄屋宅で行われ、藩役人が百姓に対して宗門改めの前書きや法度の趣旨を説明した上、奉行の面前で誓約の印形を取った。
宗門改めの場への参集者について、先に見た中筋組では、読み合わせの際に年寄以下の百姓は庄屋の後に並ぶこと、「縄引こま」を絶対にしないこと、御法度の傘・ひねり蓑は着用せずに竹のこ笠・田蓑で参席することなどを大庄屋が注意している。これは身分序列の順守や風俗の統制を促すものである。「縄引こま」の詳細は残念ながら不明である。
中筋組で宗門改めが実施された翌12日には、大庄屋から「来る16日に明倫館の講堂で藩役人へお礼をするので、朝5つ時(現在の午前8時)に拙宅へお出で下さい」との知らせがあり、宗門改めの後には藩役人へのお礼が行われていたことがわかる。
参考文献
舞鶴市史編さん委員会『舞鶴市史・通史編(上)』、舞鶴市役所、1993年、852-865頁。
出典「寛政五年伊佐津村御用日記」
一来ル七日ゟ東方へ宗門御改ニ御出被成候、尤当組ハ十一日之積候而御座候間、左様ニ御心得、且例之通り諸帳面早々御出シ可被成候、已上
二月三日
一来ル十一日宗判被 仰出候、尤年寄方ハ組頭ヲ引連き御よみ渡シ之節ハ、其村之庄屋之跡ニならひ可被申候
一宗判ニ罷出候者、縄引こま急度不仕候様御申達、若左様ニ不心得之者跡ニ而承り候得者可及沙汰ニ候
一傘ひねり蓑御法度之儀ニ而申迄も無之候得共為念申達候、尤竹のこ09笠田みのニ而罷出候様申御申達可成候
一組頭ハ我組下ヲ召連致吟味不心得無之様、随分気ヲ付可申様御申達可被成候
一十日之九ツ時揃ニ町宿へ御出人足何角無間違、例之通り御割付、尤遠方の村方ハ例之通人足召連御出可被成候、已上
右之通り、急度御申付可成候、已上
一宗門御礼之儀、来ル十六日東西共罷出候、尤も講堂被仰付候間、朔((ママ))五ツ時前ニ拙宅へ御出可被成候、町宿江ハ相寄り不申、直ニ致同道相勤申度候、已上
二月十二日