『倉梯村史』の1沿革編には、村の歴史がまとめられているが、米相場の変遷という興味深い史料がまとめられている。「寛政六年-百三十九年前-よりの米組相場」とあり、寛政6年(1794)から昭和7年(1932)までの139年の変遷を追っている。堂奥の西村氏所蔵、大正10年(1921)年正月、江戸時代の組(祖母谷組)相場、現在の郡相場をこの帳簿に記して永遠に保持し、将来の参考に供する、とある。おそらく、西村氏が先祖から書き継いだ米相場を、著者坂本蜜之助が写し、大正11年以降は坂本が追加したものと思われる。
米の値段は、寛政6年(1794)の場合、53匁5、38銭3とある。これは、米1石が53匁5分であり、大正10年の価値から1貫匁を71銭5厘で換算し、38銭3厘としたものである。毎年50~80匁の幅で推移しているが、幕末までに100匁を超えているのが、天保7年(1836)111.9、天保9年166.3、嘉永2年(1849)199.5、嘉永3年127匁である。天保は、全国的にも有名な天保の飢饉によるもので、『舞鶴市史』年表には、天保7年には、早春より雨天がち、5月夏至ごろより土用明けのころまで連日降雨、たびたび大雨となり、田畠作物不熟にて大凶年、穀物はなはだ高値、とある。それより高いのは嘉永2年だが、やはりこの年も飢饉で、嘉永2年11月26日、藩は、当年が年柄がよくなので、年貢収納米のうち4000俵の拝借を指示した。翌嘉永3年9月3日も、領内大洪水で凶作、10月町方より難渋人が多く出て毎夜ものもらいする、とある。米の値段と飢饉は連動していることがよく分かる。
出典:『倉梯村史』1933年