鳴物停止令とは、近世において為政者やその近親者の死に対し、幕府や藩が楽器の演奏などの鳴物や普請などを一定期間停止させた法令である。鳴物停止令は、近世の民衆にとって天皇や朝廷の存在を認識する機会の一つであり、その停止日数により死去した人物の身分的序列を示す機能を持つものであったとされる。
「寛政五年伊佐津村御用日記」から、寛政5年(1739)に田辺藩では少なくとも4回の鳴物停止令が出されていることがわかる。以下、それぞれの概要を見てみよう。
4月17日、「徳川刑部卿御逝去」に関して停止令が出された。徳川刑部とは、11代将軍徳川家斉の弟にあたる徳川治国のことで、4月8日に死去している。普請は16日のみ停止、鳴物は16~20日の5日間停止された。
続いて、7月6日、「若君様去月廿四日日遊御逝去」のため、普請が6~9日の4日間、鳴物が6~14日の9日間停止された。没年月日から、若君とは家斉と側室勢真院の長男竹千代であると考えられる。竹千代は、寛政4年7月13日に生まれているため、1歳にも満たずに夭折したことになる。なお、この時の停止令では「村々寺院へも向寄庄屋ゟ相達候様」と大庄屋から指示されている。これは、停止令の期間中、寺院の呼鐘を止めるよう指示したもので、停止令においては寺院の鐘も鳴物として規制の対象とされた。
次に、記述の前後関係から9月2日に出されたと考えられる「松平和泉守様去月十九日御死去」に関する停止令である。没年月日から、三河国西尾藩2代藩主松平乗完の死去に関して出されたものだろう。乗完は寺社奉行、京都所司代を歴任し、当時の老中首座松平定信による寛政の改革では老中の一人としてその一翼を担っていた。停止令では、鳴物は2~4日の3日間停止、寺院の呼鐘も制限されたが、普請に関しては「普請者不苦候」とされ、規制の対象とされなかった。
最後に、9月16日、「尾張宰相様去ル五日御逝去」のため、普請が15日のみ、鳴物が15~19日の5日間停止され、寺院の呼鐘も制限された。尾張宰相とは、美濃国高須藩5代藩主であり、後に尾張徳川家世子となった徳川治行を指すと考えられる。治行が実際に亡くなったのは8月30日であるが、その死亡が公表されたのは9月5日であるため、田辺藩においてもその公表日が命日とされていた。
以上、「寛政五年伊佐津村御用日記」に見られる4回の鳴物停止令について概観した。田辺藩では、特定の為政者が死去、あるいはそれが公表されてから1~2週間程度で停止令が出された。寛政5年の停止令の対象となった人物は、それぞれ徳川将軍家や幕政に関わる人物である。また、普請・鳴物の停止期間は1日の場合もあれば9日間と比較的長い場合もあった。藩領内の停止令の施行に関しては、幕府令によるものと藩令によるものの2つに大別されるが、領内への触れ出しは各個別領主の裁量に任されており、田辺藩においても藩主の裁量によって停止令の期間に長短があったものと考えられる。
参考文献
中川学「『鳴物停止令』と朝廷」学習院大学人文学科研究所『近世の天皇・朝廷研究:大会成果報告集2』2009年、73-93頁。
尾林あかね「近世鳴物停止令の構造に関する考察―国持・譜代大名家における本文家関係に注目して―」昭和女子大学文化史学会『昭和女子大学文化史研究』2021年、35-58頁。
国史大辞典 ジャパンナレッジ版 https://japanknowledge.com/library/(2023年2月27日最終閲覧)。
出典「寛政五年伊佐津村御用日記」
一徳川刑部卿様御逝去ニ付、普請之儀者昨十六日一日、鳴物、昨十六日ゟ来ル廿日迄五日之内御停止被 仰出候、此段村々致承知、尤寺院へも向寄之庄屋ゟ早々相達可被申候、已上
四月十七日
於江戸表
若君様去月廿四日日遊御逝去候ニ付、普請来ル九日迄、鳴物同十四日迄御停止被仰出候、御承知可被成候、尤村々寺院へも向寄庄屋ゟ相達候様被仰出候、早々相達可被成候、已上
七月六日
松平和泉守様去月(8月)十九日御死去ニ付鳴物此二ゟ四日迄御停止、普請者不苦候、左様ニ御心得、尤寺院江も御達可被成候
一尾張宰相様去ル五日御逝去ニ付鳴物昨十五日ゟ十九日迄御停止被 仰出候、尤普請昨日切御構無之候間、左様御心得、惣寺院江も最寄御申達可被成候、已上
九月十六日