不孝者の改心(東吉原町九郎右衛門)

 東吉原町に、九郎右衛門という者がいた。彼の家は貧しく、父母から何かを教わる、ということも少なく、親への恩もわきまえず反抗するばかりであった。
 その頃、藩では仁政を施し庶民を導こうと考え、京都から中沢道ニという心学の学者を呼んでいた。これを聞きつけた町内の者らが中沢を招き入れ、瑞光寺において毎晩道話が行われる。この不孝者、九郎右衛門も、何か浄瑠璃か面白い話を聞けるようだと思い、ある夜その席に入って話を聞いた。その夜、中沢は孝道(孝行の道)について話しており、これを聞いた九郎右衛門は、家に帰りすぐさま父に向ってこれまでの不孝を詫び、自ら改心したのだった。
 この後、父と妹が病身になると、九郎右衛門は家業の漁業もやめて献身的に介抱し、空いた時間に米つきをして賃金を稼いだ。また、冬の寒い日には父と妹には着物を着せてやり、自らは薄い単物1枚で過ごした。文化2年(1805)、藩主は九郎右衛門の行状を聞き、白銀を与えてこれを賞した。
 父の死後も、九郎右衛門は漁業に精を出して、借金も返済する。彼の乗る舟は、なぜか必ず魚が大量に捕れると噂になり、これも孝行の致す所か、と人々は語ったという。

原文

三十東吉原町九郎右衛門
東吉原町に住て、漁を業となしける、八郎左衛門といへる者の子、九郎右衛門といへる者の、母ハ天明四辰年死す。家貧しく、素より賤業にて取分け、父母の教もなく、智闇くして父母の恩さへも弁へざれバ、己独育だちしやうに思ひ、何事も父母に逆ひ、仮初にも順ふ心なく、父もまた子とも思ハざりし形勢也とかや。其頃 君専ら仁政を施し庶民を導給ふ御余沢にや、当時手島門人のうち中沢道二といえるハ、七十余の老人にて、京都に名高き心学の講師なりしが、亭和元辛酉年卯月の頃、町役人どもいひ合せ、この老翁を招き来り、瑞光寺に於て、毎夜かの道話をはじめける。もとより席料もいらざる事なれバ、此九郎右衛門も、浄留理おとしばなしなど聞心もちにて、或夜其席に入て聴ところに、其夜の話ハ天地父母の恩のあり難きより、孝道の筋にも及べるなるべし。講席をはりて九郎右衛門家に帰るやいな、父に向ひ、年来不孝の罪を侘びけるハ、不思議といふべし。父は却而其黄昏迄も、われを足蹴にせざるバかりなりしに、いつになく改りし言葉、手の裏をかへすごとくなりければ、若ハ狂気もやせしならんと、只顔をながめて言葉なかりしも理也。さて何ゆゑ斯いふやと問へば、今宵心学の話を聞に行しにかやうゝゝゝと答ふ。父更に実とも思ハざれども、其夜は過ぬ、翌晩またかの話を聞に行んと父に乞ふ。父も悪敷ことにも思ハざれバ免してやりぬ。九郎右衛門道話を聞にしたがひ、弥後悔なしけるハ、誠に人心霊妙の本心発見して、平日の不孝を改め、子たるの道を勉むる心に成けるハ、秉彝の良心止に止れざるところ、難有かりける事、心学の大功道二が徳化といふべし。其のち亨和戌年二月より、父八郎左衛門病を発し、妹も同しく三月より煩ひぬれども、二人ともさせる症にもあらざりしに、かの親を親とも思ハざりし九郎右衛門、漁をやめ家に在て、父妹を介抱するこそ奇特ともいふべし。素より貧窮の上に家業を怠たれバ、必死の困窮におよびぬ。病人介抱のいとまにハ、米屋を頼ミて米の賃舂をなして、 少しの賃銭を得て以て日を送る光陰早くも冬にいたれども、衣類も薄く一まいの着物も父に着せ妹にきすれバ、己は極寒たりとも、単物一枚にて、寒風を凌ぎ、近所の米搗にやとハるゝ時だも、休の間にハ帰りて父の安否をとひ、又日雇さきへ行て業を勤む、かくのごとく艱難心苦し看病するといへども、翌亥年の春妹病死す。同卯月に父も同じく病死なしけれバ、昔時の不孝に引かヘて今ハ又孝子九郎右衛門心のうち思ひやられて猶あはれなり。斯てもあらざれハ野辺に送りけり。其後ハ前のごとく漁をなして挊出し、食物の余銭をあつめ置て、借銀方へかへし済しけるまでの行状、文化二年 高聴に達し奉りけれバ、君ふかく感歎ましまし、其孝友を賞し御発駕の節追手まへゝめし出され、御役所にて白銀をたまひける。これ九郎右衛門三十五歳のときなりけり。又里人の物がたりを聞に九郎右衛門父死後魚猟に出るにかれが乗るところの舟にハかならず猟多しといひて挙て九郎右衛門と同船を望む者多かりしとかや。これ全孝感のいたすところか、上学を好で下を仁ざれバ、かく善教をきく事あたハず、善教の力によらざれバ、何を以てか感発興起の端をひらかん。性本善なりといへどもこれ又教のしからしむる処ならんか、文化八未年五月廿四日ふたゝび褒美なし給ふて、鳥目若干をたまふ。

(出典:『田辺孝子伝』(広瀬宗栄、1928、舞鶴町立図書館)、国立国会図書館所蔵、info:ndljp/pid/1190762)

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