上福井村に、佐兵衛という水吞百姓がおり、引土村の「つま」という者を妻としていた。佐兵衛の家は貧しく、夫の佐兵衛は京都へ奉公に行っており、夫の留守の間、つまは幼子の世話や姑の介護、家事をして過ごしていた。しかし、長い留守の間、夫からの手紙は絶え、また奉公先で異妻をもうけたという噂話まで聞こえてきた。
このため、つまの親兄弟らは「佐兵衛とは縁を切れ」と言うが、つまはこれに従わず、姑や子の世話をして家に残る。程なくして、佐兵衛が見つかり、また癩病を患っていることが分かる。このため親類らは再び佐兵衛との離縁を求めるが、つまはこれを断り、夫の病を治すため、2人で四国巡礼に出立した。しかし、この巡礼の途中、坂本村というところで夫は力尽き、亡くなってしまう。つまは悲しみながらも夫をその地に埋葬し、再び家に戻って、姑らの介護をして過ごした。この貞節者のことを聞きつけた藩主は、文化4年(1807)につまを召し上げ、白銀を与えてこれを賞した。
孝子伝の中では、
①夫に捨られぬれども顧ハず(=夫が異妻をもうけたと聞いても気にせず)
②親兄弟取かへさんと計るといへども、一度人に嫁して変せざる操
(=親兄弟から離縁しろと言われても、一度嫁いだからと、志を固めて変えず)
③子を捨て頼ミなき夫につかふるに死を以てす(=子を預け、夫のために四国巡礼に出)
④夫死してハ又姑に事る(夫が死んでからは、姑に仕える)
ということから、4つの徳を備えた稀有な人物であり、『比売鑑』の鮑女宗に匹敵すると書かれている。この鮑女宗とは、宋の鮑蘇という者の妻である。彼女もまた、姑に対してよく仕え、夫が宮仕えに他国へ行き、そのまま別の女と結婚していても嫉妬せず、姑の世話を続ける、という貞節者であったという。つまも、この鮑女宗と同様の行いをしており、どちらも夫や嫁いだ家に仕える貞節者として、人々の手本となる存在であるといえるだろう。
原文
三十五福井村佐兵衛妻
上福井村佐兵衛といへる水吞百姓あり。妻ハ同国引土村嘉左衛門といへる民の女にて、名をつまと呼ぶ。夫佐兵衛ハ家貧しければ、十六七年前より旅挊を志し、京都辺へ行き奉公なしける。つまハ稚子を育つゝ、夫の長き留守の間、艱難をなして姑を養ふ。夫よりも折々銀子を越して家内を見つぎける。かたゞゝにて細き煙をたてける処、後にハ夫も老母の安否をとふ事をも忘れ、絶て文の便さへもなく、剰へ上方にて異妻をもちけるなんど風聞ありけれバ、親類村人の耳に入り、それにてハ事すまじとて、佐兵衛をよび返すといへども帰り来らず。妻が親兄弟も又これを聞て甚いかり、つまを呼ていひけるハ、夫とたのむ佐兵衛、かゝる不実の上は、其方をとり戻すべし。佐兵衛と縁をきれよといふも尤也。世の婦女夫異妻にあひぬると、聞も定めざることをだに妬心を生じて、親の進をも待ざる者多し。しかるに此婦ハ、父母兄弟の言葉を肯ずして、只姑を大切になし子を育つゝ日を送りける。其後村長等きびしく沙汰して、佐兵衛弟の庄左衛門といへる者を京都へ登し、強く佐兵衛を連帰りけるといへども、元来水吞百姓の事なりけれバ、長き留守のうち家内のくひ込多くして為べき便りもなく、煙もたてかねける故、里人親るい相談して、小頼母子を組たて遣し、漸くに月日を送りける。扨庄左衛門も又旅挊に出けるのち、間もなく佐兵衛難病発し、これ迄の借銀の残る上に、病気に取まぜ其日さへ送りかねけるを、諸親類見かねて色々相談のうへ、弟庄左衛門をも呼戻し、諸道具をもうり払い、借銀の訳付をなし、老母を弟庄左衛門に養はせ、佐兵衛夫婦子供ハ別に小家を求めて住せける処、つま女ハ甲斐々々しくも、賃仕事などを為して、夫の看病深切を尽すといへども、佐兵衛後にハ癩病の体にて人交りも成がたく苦ミけるゆゑ、つまが親元よりハ、今度こそ是非々々縁を切て帰るべしと頻に勧るといへども、つま女また得心の色なく答へけるハ、一度嫁せし上ハ、如何やうの事出来るとも、親元へ帰るの道なし。たとひ親兄弟の義絶勘当をうくるとも、今更夫の難儀を見はなし、かへらん事おもひもよらざる事と、一筋に思ひ切し返答なしけれバ、其上強る言葉もなく止にけり。其のち夫婦の者いひ合せ、此上は神仏の御蔭をもつて、万一にも快気なさん事もあらんかと、両人の子供は弟庄左衛門へ預けおき、つま女旦那寺へ行き、捨往来を認もらひ、七年前亨和三亥年の卯月の頃、旅の用意をとゝのへ、夫を連て村を旅だつといへども、夫の病にてハ途中果々しく歩行も出来かね、殊に路銀の儲もあらざれば、道々夫を休ませおきて、つま女ハ報謝を乞ふて四国を志し行程に、同年六月やうゝゝ讃岐の国にいたる所、夫難病のうへにまた瘧疾をわずらひけれバ、つまの難儀いふ計なく、乞食同様の形勢となり。看病なしける心の中思ひやられて哀なり。されども兼々志す。順礼の事ゆゑ、倒るゝまでハ介抱なし、連行んと覚悟を極め行所に、同国坂本村といふ所にて夫佐兵衛終に死たりける。女の身にて旅へ出るも、誰を力となすべき頼もなく、神仏の助もあらんと思ふ計のちからも落て、ともに死んとおもふならめ。去にても事済ざれば、其所に葬り、すごゝゝ故郷をさして帰りける。心の内さぞやるせなからんと、書とるさへも猶哀れなりけり。程なく国にかへりて前のごとく姑へ事へて孝順を尽しける、其行状 上聞にたつし奉りけれバ、其孝貞を厚く賞し、御発駕の節追手前へ召出し、孝子等とともに白銀をたまふハ、文化四卯年の事にして、同六巳年姑齢八十歳、つま四十九才とかや、今にいたり孝養怠らずとて、同八未年五月廿四日御蔵米十俵、孝婦つまへ賜ひ、同十一年六月長臣内海某巡在のとき、ふたゝひ鳥目壱貫文をたまふ。世に孝子貞婦数多ありといへども、此婦田舎に生立、人道の教とてハ露バかりも聞ことなふして、四ツの徳を備へり。高貴の婦人さへも、妬の心なきハ稀なるに、その夫に捨られぬれども顧ハずこれ一ツ、親兄弟取かへさんと計るといへども、一度人に嫁して変せざる操是弐ツ、子を捨て頼ミなき夫につかふるに死を以てす。是三ツ、夫死してハ又姑に事る是四ツ、其事実一として聖賢の教にもるゝ事なし。世の婦人其一ツあるをも尊びしたふべし。いはんや此人四ツながら懸ぬるをや。夫わかき婦に物いへるを見てさへ妬ミ、又ハ親々の問ふにもまち得で、夫を捨て舅姑に事へあしく、やもめを立ざるハ、又一ツありても人いやしミ悪むべきを、今その二ツ三ツあはせ守れるつま女は、かの比賣鏡に載する。女宗が類ひならんか。唐土に鮑女宗といひけるハ、宋の鮑蘇が妻なり。其姑につたしミてよく事へたり。鮑蘇ハ出て衛の国にミやづかえし、既に三とせに成けれバ、其処にも妻をとりて住けり。女宗さハ聞しかど、露ねためる色もなく、しうとめに孝なる事いとゞつゞまやかにして、ゆきゝの便にハ鮑蘇に音づれなし、かの妻にも物おくりて情いと浅からずなしけるに、大よめなりし者、女宗をそゝのかし、心うつろひたる人を頼ミて甲斐あるべきかハ、今ハ去ざらめや。いつぞ限りになど支へけれバ、女宗こたへていはく、女は一度の契りをかへず、夫死しても又嫁する事なし。たゞ衣食をいとなミて夫につかへ、舅姑を養ふことをつとめとす。心一筋なるを貞といふ。よく人に従ふを順といふ。男の愛を恣にするばかりよき事ともいはんや。其男の女をすゑおくこと、天子は十二人、諸侯は九人、卿大夫は三人、士ハ二人なり。わがぬしは士なれバ弐人ハ有べきぞや、其上女の人にすてらるゝ道七ツあり。男を捨る義ハ一ツも無し。とりわけ物ねたミこそ七ツのとがの始とハする事なり。君は年まさりぬれバ、嫁たるものゝ家に住むさはふこそ、我にハ示し教らるべきに、かへつて人にすてらるべき業せよと導かせたまふハ、何のためにか侍るとてつひに随ハず、弥しうとめにをこたりなく事えけり。宋の君聞し召されて、深く愛おぼしけれバ、世の女の尊ふべきものなりとて、名を女宗と号せられ、その里をしるしてあらはさせ給ひけり。
(出典:『田辺孝子伝』(広瀬宗栄、1928、舞鶴町立図書館)、国立国会図書館所蔵、info:ndljp/pid/1190762)