献身的な母の介護(常津村弥左衛門)

 常津村(現:福知山市大江町常津)に、弥左衛門という男がいた。彼の家は、兄弟が5人ほどいたが、父は弥左衛門が8才の時に亡くなってしまったため、それからは母が1人で稼ぎ家を支え、5人を養ってきた。その後、娘たちは嫁いでいき母と弥左衛門と末の妹の3人で暮らしていた頃、母が中症(脳卒中などの後遺症、半身不随)を患い、手足が動かなくなってしまった。

 そのため、それからは弥左衛門が母の介抱をするようになった。常に母の考えに逆わず側に仕え、冬の日は火で蒲団を温めて着せ、また寒い夜には母の手足を自分の懐に入れて温めるなど、様々に心を配り、献身的に介護した。妹が家を出てからも、弥左衛門は1人で母の介護に努め、近所に出る時でも行先を告げて母の許可を得て行き、畑作や蚕の桑を採りに行く時も、1人では退屈だろうと、母を背負って作場へ行った。また、作場では母を座らせて茶を煎じて置いておき、働く間も時々側へ行って小唄をうたうなどして母を気遣った。これは、幼い頃1人手にして5人もの兄弟らを養ってくれた母のため、今度は自分が力の及ぶかぎり介抱し、1日も長く長生きしてほしい、またそうすることで自分の心も澄むのだ、という弥左衛門の考えがあってのものであった。

 このため、文化6年(1809)藩主からその孝行であることを厚く賞して白銀を賜った。この時、母77歲、弥左衛門40歳の頃であり、また翌年その孝の怠らざる様子を聞き、蔵米7俵を賜ったという。

【図 「田辺孝子伝」常津村弥左衛門】

原文

(五十五)常津村弥左衛門

御城下より五里あまり離れたる、常津村といへる所の百姓弥左衛門、母につかへて至孝なり。父ハ甚六といひて壱石余の田地を持てり。男女の子五人あり。父ハ弥左衛門八才のとき身まかりし後ハ、母壱人挊にて五人の子を養育なしぬ。弥左衛門成人にしたがひ、姉妹共三人ハ、それゝゝに嫁せしめ、今ハ母と季妹と三人むつまじく暮しける処、七ケ年前、享和三亥年より母中症になやミ、終に手足かなハざれバ、弥左衛門日頃に倍して看病なしける中にも、里人の賞する一ツふたつを挙ていはゞ、常に母の意に逆ふ事なくして事ふ。病付しより後ハ、冬の日ハ火をもつて蒲団をあたゝめて着せ、寒夜にハ母の手足を己が懐にいだきて温めなど、さまゞゝ心を尽し、季妹とゝもにつかへけり。弥左衛門弐ばんめの妹わさといひしハ、丹波の国福智山御領新庄村の民、太四郎といふ者へ嫁し、姉妹も同国へ嫁し相応にくらしける。就中左四郎ハ実意なる者にて、彼弥左衛門母に事へて心苦なしけるを隣ミ、合力のため弥左衛門が末の妹を引とり片付けれバ、去年よりハ弥左衛門壱人にて、母の看病さぞかし難儀ならんと、里人弥左衛門に妻を迎ん事を進む。弥左衛門答へていふ。若娶る処の婦、母の介抱行とゞかざる時ハ、却て無にしかずといひて、無妻にてくらしける。扨弥左衛門恒に近所へ出るにも行先を具に告げ、母の許を請ざれバ出る事なく、畑作またハ蚕の桑くきに行ときだも、留守にて退屈ならんと察し、母を背負筵茶瓶を携へ、作場の辺に筵を敷き、母をして座さしめ、茶を煎じ進め置て、其働く内にも、折々かたハらへ行て小唄をうたひなどして退屈なからしめ、常に母の気を勇ましめ、長命を祈けり。是兄弟の者幼して父に離れ、我等五人の兄弟を、母壱人の養いく、いか計ありつらんと思ひやり、責てハ力のおよぶかぎり、気をいため、一日成とも長命させ度のミと聞えけり。去によつて神仏の参詣、其外見物事にハ背負行、何程困窮にても、菓子饅頭の類を調持行て、先にての慰となす。春の頃万歳など来るときハ、毎年近き村までも背負行て見物させぬ、既に此春も、同国加佐郡河守といへる処の、内宮御遷宮の時だも、壱里あまりの道を背負行て拝ませける。過し年々かの新庄村左四郎がむすめ、西国順礼に出ると聞えけれバ、母ハ孫の事なり。暇乞のため逢度よしをいふ。弥左衛門方にハ折柄仏事ありて尤いそがはしき時なりけれども、母の望ミ黙辻がたくおもひてや、彼国より出る順礼の通る道ハ、必同国公庄村なりとて、其公庄村まで余ほどの道を負行て其所に待に、果して孫女通りかゝりて、対面させけれバ、母のよろこぶ事大方ならず、又母の里ハ壱里余を隔つる所なり。其所へ負行ことハ常なり、一ツとして母の望ミを達せざる事なし。近年ハ母難病の上に老耄して、親類近隣の者の思ハ忘れざる故、咄応対に替る事なし。されども名を忘れ、誰を見ても伯父々々と呼びぬるはかりの老耄ゆゑ、髪を結ひ沐浴させ、帯を〆て、是にてこそ嫁入ハ出来ますと戯れにいへば母も悦びける程に、老衰しても万に退屈せずとなり。余儀なく御城下の町へ行んときハ、其よしを母に告げ、隣家へ母を頼ミおき出行といへども、母ハ其帰るを待かね、入口までもはひ出、弥左衛門帰るを見れバ、伯父々々といひて悦ぶ事、小児の母を待はぶるがごとし。よつて弥左衛門心を配り事るもまたその如し譬手の離しがたき業に取かゝり居る共母の退屈の体を見れバ、其業を捨置、側へ行て、小うた浄るり、あるひハむかし咄物真似をなし、又ハ背負出気を慰る事、唐土の老菓子に彷彿り。年の暮ハ何国の浦迄も閙敷ものにして、貧民ハ猶さら不手廻り心支なる時節なりといへども、母の慰をなし伽をなす事平生に替る事なく、只母の心を以て己が心と為せバ、元朝より大晦日まで昼夜の別ちなく、元より他の聞えも、何のおもひやりもなく、聲高に謡笑ふを、他より聞ときハ気の狂ひしやうにおもはれけり。全体弥左衛門酒を嗜といへども、絶て呑ざるゆゑを問へば、酒をのむときハ座の長くなりやすきものなり。余儀なく町力へ出る時少しも、難病の母を隣家へたのミおき行ことなり。よつて我が帰りを母の待んこと必定なり。我酒を呑バ一寸酒店へたちよりても、手間とれやすく、万一帰り遅なハりしとき、母その故を問ハゞ、まさか酒屋にさけのミ居たりともいひがたく、其時ハ彼是用向多かりしとか何とかにて、遅はりしと偽はらん心の、万一起りてハよからずと思ふゆゑ、飲ざるなりと答へける。又何ゆへ親を大切に為やとその心入を問へば、親ハ大切になさで叶ざる事に思へども、身不自由にくらせバ、何ひとつ孝行らしき事も得こそ為ずといへども、幼少より養育の恩をおもへば、心の及ぶ丈ハ力を尽すこそ、我が心澄しと存じて、老年のうへ長病の母ゆゑ、責てハ退屈なからんやうに心を用るのミと答へける。かゝる心緒なる故に、無妻にして母の介抱のミに身をゆだね、いかほど艱難にくらすといへども、母へは其体も見せざりける。畢竟姉妹ミな律儀なる者にして、丹波辺にてハ相応に暮せし方へ嫁といへども、母の事心に忘れざれバ、問ひ音侭るゝ中にも、新庄村のわさハ、殊に母を慕ふ事ふかし。其夫太四郎とり分心を付、三人の婿へはかりて、弥左衛門が孝養を助ける故に、弥左衛門も又母の介抱のミにかゝり居て、孝養を尽すことを得たり。彼婿ども常にいひけるハ、如何なる故にや、弥左衛門へ送る所の物は惜からずとなり。是ミな弥左衛門が孝を、天の憐ミ給ふ者なりと、聞人挙て感嘆せざる者なり。すでに其孝状文化六巳年 君の御聴に達し奉りけれバ、御発駕の節追手前へ召出され、其孝なるを厚く賞し、孝子等とともに白銀をたまふ。此とき母の齢七十七歲、弥左衛門四十歳のときにして、翌未年その孝の怠らざるを聞召御倉米七俵賜ひ、同十一戊年重臣内海某巡在の節、また鳥目を若干たまひて、厚く御賞有けるとかや。

(出典:『田辺孝子伝』(広瀬宗栄、1928、舞鶴町立図書館)、国立国会図書館所蔵、info:ndljp/pid/1190762)

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