お手本になった孝子(岡田由里村武左衛門夫婦)

 岡田由里村(現舞鶴市西部)の武左衛門夫婦は、老年の父に対して献身的に介護した。また、武左衛門が父の作った草履を履いて母の墓参りをしようと言うと、妻は「お父さまが御作りになられた草履をはいては罰が当たる」として止めた。父が草刈りに行きたいと言うと、心配だが気晴らしにもなるだろうからと考え、隠れて父の後をついて行き、遂には一緒に草刈りを手伝った。このような孝行の様子を見て村長は藩に彼らの事を報告し、藩主の耳にも入った。これにより、寛保3年(1743)武左衛門の年貢免除を仰せ渡され、また白銀2枚を賜った。その後、藩主は彼らの孝行を「諸人の能亀鑑(お手本)」にさせようと考え、領内の人々にこれを触れ知らしめた。

 この武左衛門夫婦の孝行については、享和元年(1801)に幕府の主導により刊行された、『官刻孝義録』の中にも記載がある。『官刻孝義録』丹後国の事例として孝行の伝文が掲載されているのは、この武左衛門夫婦と公文名村源太郎の2件のみであり、特に優れた孝行者として全国に広まったことがわかる。

【図 「田辺孝子伝」岡田由里村武左衛門夫婦】

原文

二岡田由里村武左衛門夫婦

丹後国岡田由里村の民、武左衛門夫婦の者ども、父母に事て孝なり、父を安左衛門といひて、高五石余の田地を持て相応にくらしける百姓なりけり、母は武左衛門が九才の時身まかりぬ、其翌年秋のころ、父また水間村の民森といへるものゝ妹を娶て、二男庄五郎をうむ、武左衛門妻ハ名をたあとよびて、実ハ上桑飼村の太郎兵衛といへる民の女なり、幼して父母に後れ、孤となりしを、同桑飼村に住ける、叔父清左衛門といへるもの引取て長となし、則養女として此武左衛門方へ嫁せしむ、のち女子を産む、夫婦ともに正直温和なる生質にて、父母に事へ兄弟中むつましく暮しける、扨貧富をいはず賤民のならひにして、年老ぬれバ、子に家をゆづり、己は隠居家を構へ、別家に住むことおしなへて皆しかり、此安左衛門も年老けれバ、此十年已前、持高五石余のうち、三石五斗八升余の田地を付て武左衛門に家をゆづり、のこり壱石五斗余の田地をもつて其身夫婦と、二男庄五郎を連て別宅にうつり、隠居の身となりける、さて武左衛門夫婦世に聞えたる孝行を尽せし、その一ツ弐ツを挙ていはゞ、父安左衛門藁草履を造り、親類へ音物となし、又武左衛門へも此艸履をはきて、実母の墓所へ参詣いたすべしと、いひつかハしける事有けり、此とき妻のたあ、夫にむかひていひけるハ、舅御のかくいひ越し給ふとも、此草履は父御の造給ふものなれバ、冥加おそろしくおもふなり、必はき給ふ事なかれと止けるとかや、其のち父もいよゝゝ年老けれバ、継母と庄五郎をかの隠居家に残し、父をわが方へ引とり、夫婦心を合せ孝養を尽しける、しかれども富貴貧賤ハ人力のおよぶところにあらず、近きころハ家もまづしくなりぬれども、成たけ食しやすきものを撰ミて父に進めぬ、夫婦ともに作場へ行ときハ、娘を付おきけれども終日に父のさみしからんとおもひて、夫婦の内交々に両三度づゝもかへりて安否をとひ、慰めてハまた作場へゆきて、農事をはげミける、二三年まへ五月雨の頃かとよ、安左衛門齢九十余歳になるといへども、その身にハ若きこゝろにてもや、牛の飼草を刈にゆかんとするを、たあ聞て、年寄たまひて、浮雲ことなりと、しきりに詫とゞめければ、舅もこゝろよく止りけり、程なく夫かへりきたるを見るや否や、妻あはてゝいひけるハ、先ほど舅御の艸刈に行んとのたまひしかども、御年よられて危き御事と止めしよしを告れば、武左衛門きゝて、其方のいふところ尤なれども、又父の左ほどにのたまふものなれば、却て御気ばらしにもなる事もあるならん、何事も父の気侭にまかすべしと、いひ付て己は作場へ行ぬ、その跡にて舅また草刈に行んといひしかバ、妻ハ夫のこと葉にしたがひ、舅のこゝろにまかせぬれども、兎角こゝろ元なくおもひて、舅の目につかざるやうに、跡よりしのび行、先にてハ我をわすれて手伝をなして、草を刈かへりし事もありけり、年月たつにしたがひて、父老病にて歩行自由を得ざれバ、猶更大切につかへ、天はるゝ時ハ、暖なるところへ背負いで、気を転ぜしめ、夜ハ夫婦両脇にふして、寝起の介抱に心をくばり、冬季にいたれば、夫婦のもの、我身をもつて襖をあたゝめて寝しめ、就中妻の孝心すぐれけると、里人とりわけ賞しけるハ、此夏のころより舅大小便とも取はづす事度々なり、されとも厭ふ色もなく其たびごとに穢たる衣類をきせかへ、敷物にいたるまて人手にかゝる事なく、夜中あるひハ未明をいはず、家人の目にもかゝらざるやうに、竊にあらひそゝぎて、心を尽し事ゆるに、舅も此年月懇なる志を感じ、よろこびのあまり合掌せて、嫁を拝ミよろこぶ事度々なりければ、たあハ或とき夫にむかひいふやうハ、舅御の事なれバ、心のおよぶたけ介抱すべき筈なるを、拝ミ給ふてハ冥加の程もおそろしく、却て迷惑のよしを述ける、武左衛門此よしを具に父に告けれバ、父猶々其孝心を感じよろこぶ事かぎりなかりしとなり、武左衛門常に上を重じ御法令をまもる事はいふもさらなり、御役所へ年貢米を納るときだも、升目余計に持行て足らざる事とてハ露なかりし、或とき胡麻納めに出しとき例のごとく升目余分にもち行ぬ、役人升目を改め、其余分を武左衛門へ戻しける、其とき余人の升目不足せしもの、彼武左衛門があまり胡麻を買んと乞ふ、武左衛門こたへけるハ、我胡麻の余りしこそ幸ひなり、持かへり親に食さしめんとおもへバ、売る事ハゆるし給ハれとことわりける、かゝる孝心なる者なりけれバ、継母に事ゆるもまた善く、継母も実子庄五郎より、武左衛門を大切に思ひぬと、常に人にかたり悦びける、孝子の深愛有ものは必和気ありとかや、他人に対しても睦じかりければ、里人挙て彼が孝を賞し、寛保二年戌十一月、村長訴出重臣へ達す、重臣大に感賞したまひ取あへず、当座のなんぎ救ハずんバあるべからずとて、御蔵米炭をそえて与へおかれ、後君の御聴に達し奉れバ、翌年正月夫婦が孝を厚く賞し、武左衛門持高の年貢ながく免許せしめよと仰せられて御家老より免許の状を下し給ひ、白銀弐枚をたまハりける、夫婦のものおもひもよらざる君の御感賞をかふむり、速に家に帰り父母に告ぐ、父母また君恩の身にあまりぬるとて、よろこぶ事限なく、夫より父夜ごと〱にいひ出し歓の余り終夜眠ことを得ざれバ、孝子夫婦また咄相手となり、ともに歓び夜を明す事多し、此のち武左衛門朝毎に垢離をとりしゆえ、近隣のもの其故を問ふ、こたへて曰、此たび結構なる御褒美をいたゞき、難有こと冥加至極といひつべし、其君恩何を以て報奉らんや、責てハ君御安泰にあらせられかしと、恐多くも心願をこめ祈奉ることなん聞えける、此時父齢九十八歳、継母八十四歳、武左衛門五十三才、たあ四十弐才、庄五郎三十八、女子十八歳になりける

君ことに御賞翫のあまり、孝子夫婦の行状を書せて諸人の能亀鑑にも成べしとて、御領分へ触知されけるとかや、誠に難有御仁恵誰か仰ぎ尊ざらんや、其余の行状ありといへども、河村誠之の孝順記にあり譲て次にしるす

農民武左衛門夫婦孝順記事

孝子武左衛門、丹州田辺封内、岡田郷由里村之農民也、父安左衛門、母某、蚤死、弟庄五郎後母之所生也、妻名、太安、桑飼村農民太郎兵衛女也、幼父叔父清左衛門取之、長リテ武左衛門一女夫婦資性孝順、事父及継母与弟獲其悦矣、父老築舎於近隣、分田産与継妻及庄五郎遷居焉、親老昆季異爨者凡民俗之所同也、夫妻晨昏定省、少間則往侍父母之側佁々色養焉不数年、父復于武左衛門之舎、家雖貧凡便身之物、竭力供給、毎府城必買魚果甘脆之物帰進之父母、母及弟、常来于武左衛門之舎終日談笑情意忻々昼視如所生焉、夏則就清涼、冬則設火坑之、夜則夫婦寝其左右身温之、毎溲便扶従之、夫従焉婦則在臥席以身温被、婦従焉、夫亦如之、父及トモ耄期起居不衰牙歯完固、好食剛物婦常熬菽麥之類茶果以進之、至秋穫菽曝于殻架而未干公府、則使下レ妻拾架下脱落者、為熬果以食上レ父、村民納胡麻於公府多以所之、余交易酒果器用於市廛而帰、獨武左衛門不売帰和醤蔬父父之所嗜也、其雖食親之切、而未于公府則不敢用焉、凡納租給役也、先公而後私也、皆如之、其於隣里相親愛、無一間言矣、嘗有銅器之商日暮乞宿武左衛門、以家貧無具有難色、妻窃告夫曰、日暮途窮其情可憫、且見非奸詐之徒、雖鶏忝之設、妾能待之、請其乞、夫曰諾、其遇客也情意疑厚無少厭倦之色、少間則入室、候親之安否、至明客感謝而出語人云、疇昔主人之婦、我不其如何人矣、我歴郡国也多矣、其和順貞淑未若人矣、草蔬之薄、厚意勝於膏梁也遠矣、嗟乎我不其如何人矣、蓋孝順之徳施及乎他人也如此矣、壬戌之秋安左衛門、患淋閉、渋数其苦羸憊無能奥、婦則衣物巾褓之属藉之、以承屎溺毎利即取浣濯易以乾浄者嘗使湿汚者藉焉夫慮其力之不一レ給、謂妻曰、二三次而易焉可也、妻曰諾余夜間或無人之時、窃澣濯晒乾而不復使也、翁之血膿汚染臂上生疱疹、恐翁見之、而憂侍翁之側、必袖其手、里人或以為翁之疾、蓋因廣東疱之余毒、婦之疱疹触其汚染之所致也、婦聞之恐医或誤聞而用薬之不一レ症告医云翁元無疱疾、吾臂上疱疹者暑湿之所致翁之病為也明矣、請思諸、医云然婦亦不以語一レ人其用心之密也如此矣、翁慰其労、而屡拝謝之、婦告夫云、妾所為者子婦之常耳、唯恐不尽矣、且尊之拝卑也、冠履倒置妾甚恐焉、子告丈人使莫為意焉、翁喜垂涕、翁時九十八、病亦継愈、都農正南部弥左衛門、以聞于城府、時城主牧野公、朝覲在于東都聞之、感賞命除其田租、賜婦白金二十両之者無悦服善者勧焉、不省者懼焉、勧懲之典道人化俗也亦如此矣、亦足以見乗彛好徳之良心人々之所同而非有強焉拡而充之、則国可治天下可乎焉、聖人以為至徳要道者、豈不信哉

右所述一核事実、不假飾、以備于此之撰孝子傅者之参考然衍文之拙恐模倣之間辞義之与事相乖也、庶後之君子刪定使茲夫婦之行実不泯乎萬世焉

寬保癸亥之春三月朔旦 南京 河村誠之撰

(出典:『田辺孝子伝』(広瀬宗栄、1928、舞鶴町立図書館)、国立国会図書館所蔵、

info:ndljp/pid/1190762)

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