「他所稼ぎ」をする人々

 江戸時代の百姓・町人の中には、一定期間武家や商人などの主家に住み込み、主家の家業や家事に従事して継続的に労務を提供する者が多かった。また、居住地を離れて他地方・他領へ稼ぎに出る者も多く、彼らは「他所稼ぎ」と呼ばれた。

 田辺藩では、百姓らが毎年閏正月ないし2月に、3月から12月まで同年限りの他所稼ぎ願いを出して許可を受け、京都や隣国丹波・但馬・若狭辺へ出かけていた。参考までに池之内組村々の例を見てみると、池之内組からは文政4年(1821)に35人、翌5年に37人が稼ぎに出ているが、5年の人数の中には前年と同じ人物が15人含まれており、年々出稼ぎしている者も多くいたようである。他所稼ぎが許可制だった背景には、藩が領内の人口移動を把握・統制し領内の労働力が減少することや、京都などの都市部への他所稼ぎが戻ってきた際に領内の風俗が乱れることを防止する目的があった。これは言い換えれば、都市部への出稼ぎが商品流通・情報文化の地方への伝播という点で重要な担い手であったことを示している。

 「寛政五年伊佐津村御用日記」から他所稼ぎの様子を簡単に見てみよう。

   奉願口上覚
一私父病身ニ付、幼年之者共祖母始世話仕候、段々困窮ニ付五年以前母儀京都江奉公罷出申候、今以不如意ニ付母儀罷帰呉候ハ丶相談之上跡之手段も仕度、則母方江申遣候処承知仕候段申趣、然処叔父嘉左衛門不承知ニ而母者乍得心得罷帰不申候、依之以御慈悲嘉左衛門承知仕呼戻呉候様被 仰付被下置候者難有奉存候、以上
  子ノ九月      伊佐津村
             久太郎
   御奉行所様

 この史料は、寛政5年(1793)2月、伊佐津村久太郎が「去年9月の願書を奉行所に出してほしい」と改めて願った際に引用された願書である。願書によれば、久太郎の父親が病身で家が困窮しており、5年前から久太郎の母が京都に奉公に行っていることがわかる。先述した池之内組の他所稼ぎ願いでも「右之者共困窮仕他所挊ニ罷出度」とあり、人々は経済的に困窮している現状を打破するために他所稼ぎに出ていた。なお実際には、久太郎の願書は、母親が村に戻ることに反対する叔父嘉左衛門を奉行所役人に説得してほしい、という内容のものである。久太郎家は母親が京都に奉公に行った後も経済的困窮が続いていたようで、久太郎は家の今後や相続について母親と相談したいと考えていた。叔父嘉左衛門は久太郎家に金銭でも貸していたためであろうか、少なくとも寛政4年9月から翌5年の2月まで約6ヶ月もの間、久太郎の母親が京都での奉公を辞めて村に帰ってくることに反対していたようである。あるいは、江戸時代の奉行所は民事不介入の原則をとっていたため、奉行所が久太郎の願いに取り合わず、結果的に問題の解決が長引いたのかもしれない。

参考文献
舞鶴市史編さん委員会『舞鶴市史・通史編(上)』舞鶴市役所、1993年、886-898頁。
同上、965-973頁。

出典
「御家中奉公人并他所挊願之覚」(安久家文書)(『舞鶴市史・通史編(上)』897頁)
   (略)
右之者共困窮仕他所挊ニ罷出度段願出候ニ付 吟味仕候処作方ニ差支ニ茂不相成者共ニ御座候 然所右之者共居村庄屋所ニ是迠不納御座候間 他所挊料不納方へ上納手当テ仕度由ニ而奉願候 何卒当三月ゟ同十二月迠京都并丹波 但馬 若州辺ヘ罷越挊仕度奉願上候 願之通御慈悲ヲ以御免被為 仰付被下候ハヽ難有奉存候、已上
  文政四辛巳年二月      大庄屋
                 九右衛門
   石黒安右衛門様
   今西久内様

「寛政五年伊佐津村御用日記」
一弥御安体被成御座目出度御儀ニ奉存候、然者去年九月ニ出シ申候願書之通、乍御世話弥御出被成可被下候奉願書、若又御不知承之儀候へ者私ゟ直簡仕候、何分宜御取斗奉願上候、以上
  二月十七日   久太郎
   藤右衛門様
   久大夫様

(4月頃)
一村々ゟ被相願候他所挊願之通り御免被 仰付候間、其段御心得可被成候、以上
   庄屋中

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