「寛政五年伊佐津村御用日記(以下、御用日記)」によれば、寛政5年(1793)正月13日、今田村(現舞鶴市今田)青谷山で田辺藩6代藩主牧野宣成が鹿狩を行った。青谷山は藩直轄の森林として設営された44ヶ所の立山のうちの一つである。藩内の行永組・福来組・引土組、円満寺村から十倉村までの間にある6ヵ村から人足が出され、藩主宣成は「三谷之奥」を御立間として陣を置いた。村々から出された人足は狩猟の際に鳥獣を追い出したり他へ逃げるのを防いだりする勢子の役割を担い、彼らが追い出した獲物を谷間に陣取った藩主が仕留めた。この時、宣成は鹿2頭を仕留めている。
また、同月25日にも吉田村周辺の山で鹿狩が行われた。引土組・丸田組・大保組・福来組、余部村から今田村までの間にある12ヵ村から人足が出され、宣成は吉田村を御立間として同村年寄与惣左衛門家で休憩をとった。伊佐津村55人の者は青井村(現舞鶴市青井)の山へ向かい、勢子を務めた。人足を出した村数も多く、宣成が最終的に鹿19頭を仕留めていることからも、この時の鹿狩は13日に比べて規模の大きいものであったようである。
江戸時代、将軍や藩主が行った狩猟には鹿狩の他に鷹狩もあったが、鷹狩に参加できるのが一部の者に限られていた一方、鹿狩は百姓を含めた大人数で行われ、武芸奨励や害獣駆除などの他、領民への軍事演習も目的の一つとされていた。なお、「御用日記」によれば、宣成は4月から参勤交代で江戸に出府しているため、藩主が在国しており、しかも百姓らが農閑期であった正月に鹿狩が実施されたのだろう。
最後に、田辺藩の鷹狩についても「御用日記」から見てみたい。寛政5年2月16日正午過ぎ、宣成は共を連れて鷹野桂林山へ鷹狩に出掛けている。この時は「普段は架けていない犬橋を繋げておくように」という触が出されたのみで人足の催促はなく、先に見た鹿狩に比べて少人数で鷹狩が行われていたことがわかる。また、2月18日には渡辺東吾が「御鳥見助」に、5月8日には中山龍次が「御鳥見役」に選任されている。鳥見とは、鷹狩場の管理や将軍・藩主などが鷹狩をする際の準備にあたった役を指し、藩士が任命された。
江戸時代の鹿狩・鷹狩は単なる趣味や娯楽にとどまらず、軍事演習や威信の誇示、害獣駆除という公共事業的性格も持っており、それゆえ将軍や藩主といった支配者の特権とされていたのである。
参考文献
舞鶴市史編さん委員会『舞鶴市史・通史編(上)』舞鶴市役所、1993年、814-821頁。
出典「寛政五年伊佐津村御用日記」
一青谷山鹿狩り被 仰出候間 殿様御出被成候而人足行永組、福来組ニ引土組ゟ円満寺ゟ十倉迄六ケ村人足出候、尤 殿様御立間三谷之奥ニ立申候、御上之鹿二ツ御勝負被成候
寛政五癸丑正月十三日
一向方鹿狩り被仰出候而、則人足引土組、丸田組、大保組、福来組、余部ゟ今田迄十弐ケ村人足出申候、則御立間吉田村ニ立申候、殿様同村年寄与惣左衛門方へ御構休被遊候、当村ハ青井村之山へ参り申候、人足ハ居村ゟ五拾五人罷出候、殿様御勝負鹿十九疋御取被遊候、以上
同年正月廿五日
一今九ツ時過御供揃ニ而為御鷹野桂林山へ御出被仰出、尤犬橋繋候様例之通り御申付可被成候、以上
二月十六日
渡辺東吾殿
右御鳥見助被 仰付候間、其段御心得可被成、已上
二月十八日
一中山龍次様、右者御鳥見役被仰付候
一御手代役佐谷代右衛門殿御免
一同断山口武左衛門殿御免
一御手代藤野善八郎殿被仰付候
一御手代塩見斧右衛門殿被仰付候
右之通り被仰付候
一願ニ而御免 野村寺村 庄屋
并御目録被下 三右衛門
一庄屋役被仰付 善三郎
則三右衛門被改名有之候
一願ニ而庄屋役 高野ゆり村 庄屋
御免 利右衛門
一年寄役 同村百姓
被仰付 長右衛門
右之通被仰付候
三月ゟ四月晦日迄月抱御中間俄ニ被仰付、右ニ付十人村々ゟ被差出、則五月朔日ニ御暇出案内致候村も有之、又者当日五月迄御差留ノ人も有之候由、難有分り候間、村々下々御中間ニ罷出候名寄、又者いつ御暇罷出、又者いつ迄御差留、何人而委御書加ハ留りゟ此書状御戻ニ可被成 如様ニ申候も、大庄屋中ハ割いたし増請相寄せ度ニ付、右仕合ニ御座候、以上
五月八日