舞鶴の山城132 千原城

せんばらじょう

・福知山市大江町千原小字上ヶ岡他
・遺構---曲輪、堀切、堅堀、土橋 ・占地---山頂 ・標高---90m
・比高---85m ・遺跡地図番号---71

 この城は由良川右岸の千原集落南方の山頂に位置する。尾根の両端を掘切で遮断して東西70m南北20mの主郭を確保している。西に延びる尾根には傾斜を利用して曲輪を配置し、その長さは約50mに及んでいる。北側斜面には帯状の曲輪を造成して、端には堅堀を敷設している。

 「嶽家文書」その他の近世地誌類によると城主は中岡右京進とされる。岡野允氏は、1551(天文20)年陶晴賢の謀反で大内義隆が滅亡したとき、大内氏親族の中川信清が戦死し、子の左京進康信が逃れて千原の山城に住し、天正年間に帰農して中岡姓に改姓したという中岡家伝来文書を紹介している。

大内氏と陶氏(すえし)
 大内氏は周防(山口県)を中心に勢力をもった室町時代有数の守護大名である。日明貿易では細川氏の最大のライバルであり、応仁の乱では西軍についた。16世紀にはいっても一時京で幕府を支えたり、ザビエルに山口での布教を許すなどした。山口市は小京都とよばれるが、その文化的発展は大内氏の繁栄に負うところが大きい。しかし、1551(天文20)年、家臣の陶晴賢によって大内氏は滅ぼされた。しかし、この陶晴賢も1555(天文24)年に安芸の毛利元就に厳島で敗れた。(ひ)

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