由良川が流路を北に変える南有路の矢津に、東から丘陵が延びており、この先端に引地城が位置する。城館のある場所は、矢津集落の入口にあたり、由良川の川湊として発展したことが「矢津」という小字名からも考えられる。由良川河口から南有路までは川幅も広く河川交通に適している。このように、当城は水陸交通の要衝にある。また、矢津集落から東の谷間を遡ると綾部市物部に至る。
この城は、城域の全体を横堀と帯曲輪で囲い込む構造で、このような縄張りは、加佐郡では唯一引地城だけである。南東の丘陵続きには横堀に折れをつけ、折れた横堀の上部には攻撃用のステップを敷設する優れた防御手法である。また南端の曲輪は周囲を土塁で囲んでいる。曲輪は過去に畑地に利用されていたため、塁線は崩れている。すでに削られた土塁や、埋められた横堀もあると考える。曲輪は南北に四曲輪で構成されており、各曲輪間は堀切で遮断されている。この堀切が横堀と繋がっていない構造は、横堀を堀底道として利用した場合、曲輪への連絡が出来ないという点で一段階遅れた縄張り遺構と考える。
しかし、平成7年に行われた発掘では、中世の遺物として須恵器杯蓋、青磁綾花皿、染付椀の断片、土師器の鉢、刀の断片等の出土物があり、16世紀後半の可能性を残している。
この城館が構築された年代を考察する文書がある。綾部市梅迫町の「渡辺家文書」である。これは、丹波国何鹿郡物部城主上原氏が、隣村の丹後国有路郷を将軍足利義昭から安堵されたことを、織田信長が追認したもので、1568(永禄11)年頃とされる文書である。
大江町有路地区は南の由良川上流から丹波西部の赤井氏が、北の由良川下流から若狭武田氏がそれぞれ勢力を拡大する接点にあたる場所であった。このような状況や立地からみて、由良川の水運などを監視するために構築されたものと考えられる。
引地城周辺の横堀城館遺構には、綾部市豊郷町の福垣城や 福知山市榎原にある口榎原城がある。綾部市、福知山市の横堀遺構の城館発生は、戦国末期の三好氏と赤井氏の勢力拡大が要因であろう。舞鶴市に横堀遺構の城館がないのは、若狭武田氏の侵入に対し、在地勢力が小規模城館を構築し、自らの保身に努めたため地域性が強くなり、外部の新技術導入が遅れた為であろう。(た)
舞鶴の山城 引地城の縄張について
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