にょうじょう(別名 白雲山城)
・舞鶴市字女布小字城坂他
・遺構---曲輪、堀切、堅掘、虎口、土塁 ・占地---尾根
・標高---100m ・比高---90m
・遺跡地図番号---225
この城は女布集落の東方の尾根に位置する。国道27号線の京田バス停から西方に入る谷に登り道がある。城館の東方には、綾部や京都方面へ向かう街道が通じている。
城館は南曲輪群、中曲輪群、北曲輪群の三つに区分でき、その城域は南北200m東西350mあり舞鶴西地域においては最大級の規模である。南曲輪群は南尾根を大堀切で遮断し、北に向って三段の曲輪を配置している。そこから、北西に延びる尾根にも二段の曲輪がある。この曲輪の先には高さ約10mの切岸と堀切があり、その先の尾根にも削平のなされた曲輪が約80m続く。女布集落からの道は、この尾根に取りついている。
中曲輪群は、南北40m東西40m程の規模で、北曲輪群と南曲輪群の鞍部となっている。東方の京田集落から上って来る道は、この南端に入っている。中曲輪群の西斜面には谷間に下る道の痕跡があり、水場があった可能性がある。
北曲輪群は少し傾斜を伴って高くなっていく。南北70m程の規模で、中央部で少し東に曲がっている。その先は長さ80m程の尾根を自然地形のまま曲輪とし、先端は低土塁と小規模の堀切で区切っている。
曲輪の面積や規模から検討しても、村落の土豪クラスの城ではなく、国人と呼ばれる在地勢力が構築した城館であると考えられる。城館の北東には「七日市」「公文名」の字名が残り、中世には舞鶴西地区の中心地であったといわれる。
近世の地誌類では女布村の城主として 森脇宗坡の名があがる。岡野允氏は、森 脇宗坡は永禄年中に土佐より来丹し女布 村に落ち着き、近在五村を切り取り山城 を築いたが、細川氏の攻撃により降参し て百姓になったとする森脇家伝来古文書 を紹介している。細川家の「綿考輯録」 でも1579(天正7)年細川藤考との攻撃に 一色家臣森脇宗波が降参したとしている。 しかし、これだけの規模をもちながら この城に関する一次史料はない。