舞鶴の山城68 高野由里城

たかのゆりじょう

・舞鶴市字高野由里小字引土他           
・遺構---曲輪、堀切、土塁、竪堀、畝状空堀群 ・占地---尾根    
・標高---45m ・比高---35m ・遺跡地図番号---199

 この城は高野小学校の北方に位置し、麓には高野川が流れている。南山麓には由良川に通じる河守街道がある。遺構は尾根先を幅15m程の堀切で遮断して城域を確保している。主郭は東の尾根先にあり、南へ二段の曲輪と、下部には畝状空堀群を敷設している。また堀切側には幅5m程の土壇を設けている。堀切西側の尾根部も削平されているが、現在は墓地となっている。

 城主については「竹原家文書」などには今安相模永則とある。「丹後旧事記」では一色家随将城跡として当城をあげ「今安相模守、長江小太夫」としている。その他の近世地誌には、今安相模守は細川藤孝が在々の小城をつぶした時、地下(じげ)へ下り真倉下にて鉄砲で撃たれたとするものや、このとき今安相模は籠城したが攻め寄せると降参し、後胤は大庄屋格今安四郎左衛門家とするものがある。「一色軍記」は今安相模守について、「一色家代々の郎等にて(中略)足利尊氏公にしたがい、九国(九州)に渡りし人々なりと伝う」としている。

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