舞鶴の山城63 佐武ヶ嶽城

さぶがだけじょう(別名 大内山城)

・舞鶴市字万願寺小字スコ谷他         
・遺構----曲輪、土塁、堀切、竪掘、虎口 ・占地----山頂    
・標高----240m ・比高----230m ・遺跡地図番号----202

 この城は舞鶴市西市街地の東方に聳え立つ佐武ヶ嶽の山頂にある。西舞鶴の平野部と舞鶴湾方面への展望は良好で、北麓を東西に通る若狭街道を眼下にする。西側の尾根は五本の小規模な堀切で遮断し、南東の尾根も三本の堀切で遮断し東西80m程の曲輪を確保している。

 主郭は北側を除く三方向に土塁があり、南斜面には竪堀を配置して敵の斜面移動を規制している。大手道は北尾根を下るようである。虎口は北東隅にあり、要害性の高い地形である上に、曲輪には土塁を敷設し、竪堀による斜面防禦が見られる堅固な城館である。

 城主については、「竹原家文書」などでは三上宗翁信貞となっており、「丹後国加佐郡寺社町在旧起」の倉谷村の条でも「三上飛鳥助、のち三上相応居城」としている。  
「丹後国加佐郡旧語集」も佐武ケ嶽について「三上相応、山上に城跡あり。土居・石垣の跡あり」とする。

 一方、「丹後旧事記」は「沙彌信洞、崇光院 貞治年中加佐郡大内山に籠居す」「一色兵部少輔詮範左京大夫(中略)加佐郡大内山に籠りて市街をひらく。嘉慶年中山名時氏と戦い遂に討ち負け」るなどとしている。

 さらに「丹哥府志」は「三上宗室、坂根修理、南部豊後、飯田河内という者この城に居るという。皆一色氏の武将なり」と記す。最後に「一色軍記」では床尾山の坂根修理亮が宝徳年中に加佐郡左武嶽に籠居し、のち一色氏に従い竹野郡島溝川に移ったとしている。


【禁制とは何か】
 禁制とは寺社が戦乱の被害を免れるために、前もって戦争の当事者から放火や略奪を禁止する旨の命令をもらい、立て札などにして掲示したものである。その代償として、寺社は禁制の発給者に対して矢銭(軍資金)を提供したり戦勝の祈祷をした。なかには、戦争の両軍から禁制を獲得する場合もある。寺社が禁制を獲得しているということは、少なくともその地域が戦場になりそうな気配があったということでもある。

   禁制      桂林寺
 一、軍勢甲乙人乱妨狼藉の事
 一、山林竹木を伐採する事
   右の条々、固く停止(ちょうじ)せしめおわんぬ。
   もし違反の族有らば、厳科に処すべきものなり。
   制するところ、かくの如し。
   永正拾三年十月一日    左衛門尉(花押)
                   (桂林寺文書より)
 これは石川直経が1516(永正13)年に田辺の桂林寺に与えた禁制である。1515(永正12)に加悦谷で始まった一色氏の家督を巡る延永春信と石川直経の戦いが、この年には田辺に及んでいたことを示している。さらにその翌年には、庫橋(くらはし)山城の戦いで延永春信が敗北することになる。(ひ)

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