舞鶴の山城62 倉谷城

くらたにじょう

・舞鶴市字倉谷小字カジヤ前他
・遺構----曲輪、堀切、竪堀、土塁 ・占地----尾根
・標高----90m ・比高----85m ・遺跡地図番号---187

 この城は佐武ヶ嶽城の北麓、福来問屋町の西側の尾根に位置する。長さ100mほどの城域の中心部を堀切で遮断し、北曲輪と南曲輪に分けている。両方の曲輪とも竪堀の使用方法には変化がないため、同一時期に構築され、その後南曲輪部分だけの改修が行われた可能性が高い。南曲輪は中心部の堀切に対して土塁を敷設しており、北曲輪に対して独立性を持っていると考えられる。伝承では佐武ヶ嶽城の支城であるといわれるが、両者の遺構には類似点はない。

 城主については、「嶽家文書」などには飯田右馬之丞とある。また貞和年間(1345~1350)に島津下総守が居城し、のち一色の旗下となったとするものがある。「丹後国加佐郡旧語集」には三上相応の名が見え、倉谷城を居城とし本城を佐武ヶ嶽城としている。


【山城日記5】

 梅雨の合間の晴れ、蒸し暑いかと思っていたけれど山の上は案外風が通って涼しかった。行ったのは、境谷城です。ここはむかし水清観音への道があったところです。海軍工廠の設置によって、境谷は移転しましたが、江戸時代は万願寺や真倉くらいの村がありました。古代の切り山古墳も近くにありますし、古代・中世と栄えたところのようです。

 日之出化学の南端の谷より入って尾根にあがります。この谷は案外深く、かつて大きな集落があったことを想像させます。あがってみるとたくさんの曲輪や堀切があるのですが、造りが雑で農民が逃げ込むための城のようです。縄張りからも佐武ヶ嶽や倉谷城との関連が見えてきません。それでも気になって、倉谷城に向って尾根道をすすみました。途中に曲輪と竪堀に見えなくもないところがありましたが、それも不確かだったので引き返しました。(こ)
  平成16. 6. 4

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