舞鶴の山城59 高迫城

たかさこじょう(別名 新藤山城)

・舞鶴市字上安久小字高迫他
・遺構----曲輪、堀切、竪堀、畝状空掘群 ・占地----山頂
・標高----70m ・比高----55m ・遺跡地図番号----153

 この城は、高迫山の頂上部分に位置する。高迫山は日星高校とポリテクカレッジ京都の間の山で、周辺には団地や公共施設も建設されており、開発の波から守りたい遺構である。

 昭和58年に発掘調査が実施され、報告書が発刊されている。この時の調査は高迫山全体に及んだが、城館の遺構は頂上部分にしかみられなかった。頂上に位置する主郭の北側と西側にはそれぞれ二重の堀切を敷設し、主郭南側は尾根の左右両側に堅堀を敷設し、中央部に通路を確保している。曲輪は広面積であるが、中央部から周縁部に向かって傾斜がある。

 城主については、「嶽家文書」には上安右京祐、同苗左京進とありその他の記録でも大差ない。


【山城日記4】
 気温は30度を越え、雨前とあって湿度も高い日でしたが、何とか上安城と上安久城の踏査を終えました。
 上安久城は里村紹巴の「天橋立紀行」に登場する「安久城」と言われている城です。しかし、残念ながら上安久城は狭い帯曲輪のような削平地が続くだけです。人工的にも加工してあるのは確かですが城とは言い切れませんでした。薬草畑という人もあり、古墳にも似ているようです。しかし、里村紹巴の「天橋立紀行」は実際に旅した記録ですから、安久の城があったのは確かです。現在の安久家は伊佐津川に面し、三方を山に囲まれていかにも中世の館らしいたたずまいです。
 安久家の系図によると、先祖の安原氏が応仁文明の乱後にこの地に移り山館を築いたとされています。里村紹巴が会った安久城主は安久右京之進時親で1580(天正8)年細川幽斎の幕下となりました。妻は矢野藤次の娘です。
 天台城も安久家の隠居城ともいわれ、上安久・高迫・上安・上安向山・天台さらに五老ヶ岳と連なる城は安久家と何らかの関わりがあるかも知れません。大内郷北部を支配し、伊佐津あたりまで湾が入り込んでいたと思われる西地区の港の入り口を掌握していた安久家の姿が垣間見えます。
 また、城山といわれ、旧日本軍によって破壊され、和田埠頭への新道建設で削り取られた山は1600年田辺籠城戦で敵方高田河内守らが陣取ったであろう山です。今でも「陣取」「城山」「馬場」などの小字名が残っています。(こ)
  平成17.7.6

関連する歴史の人物

関連する人物はいません。

関連するコンテンツ