舞鶴の山城43 千歳城

ちとせじょう

・舞鶴市字千歳小字南ノ脇他
・遺構---堀切 ・占地---山頂
・標高---85m ・比高---80m ・遺跡地図番号---305

 この城は千歳集落南方の岬に位置する。尾根を堀切で遮断しているが、曲輪と思われる所は自然地形のままで加工跡はない。城館遺構と呼べるか疑問が残る。

城主に関する記録や伝承もない。


【里村紹巴】
 ときは今あめが下知る五月かな  光秀
 明智光秀による本能寺の変は1582(天正10)年6月1日のことであったが、その直前の5月28日、愛宕山での連歌会で光秀は謀反をほのめかした。この連歌会に参加していたのが里村紹巴で、彼は光秀の意を悟り
 花落つる流れの末をせきとめて 紹巴
と返して、光秀に翻意を迫った。本能寺の変の後、紹巴は連歌会に参加したことで秀吉から一時疑いをかけられた。

 里村紹巴は当代最高の連歌師であり、織田信長などの権力者の近くにもいた人物である。この人物が戦国時代の加佐郡に立ち寄って山城に滞在している。

 「天橋立紀行」によると、紹巴は1569(永禄12)年6月に若狭から丹後に入り、松尾寺を参詣したあと、志楽の「地中」から舟で蛇島に渡った。「地中」で蛇島への迎え舟がなかなか来ないのを、「敵味方のさかいめ」であると嘆いて待ちわびている。蛇島では二日間逗留した後、天橋立に発った。この間、大志万但馬守らと連歌会を催行した。紹巴は天橋立を見物した後、岩滝の弓木から上陸して嶺山城に滞在した。その後、再び蛇島に戻り、一色式部少輔に会った後、大志万但馬守の舟で安久の城に上陸し、岸谷峠を越えて上林経由で7月11日に帰洛している。

 1569(永禄12)年というと、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した翌年である。紹巴の旅の本当の目的は、戦国丹後の情報収集であったと想像するのは、時代小説の読み過ぎ?(ひ)


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