舞鶴の山城 龍勝寺と一色氏(その2)

 ところで、明治2年に峰山藩の儒者によって記された「峰山旧記」という歴史書がある。これによると、1506(永正3)年に加佐郡に入り、武田方と激しく戦った一色義晴という人物がおり、彼はその後1508(永正5)年7月9日に没し、行永の龍勝寺に葬られたという。彼は一色持長の子であると記してあるが、一色氏の系図にはみあたらない人物である。また、彼の命日の7月9日は、前述の一色詮範の供養の日である。ということは、「龍勝寺縁起」か「峰山旧記」のどちらかで人物の混同が起こっている可能性がある。それにしても、明治時代の峰山の歴史書に龍勝寺が登場する事はただならぬものを感じさせる。

 一色氏と龍勝寺の不思議なゆかりはまだある。一色義有は1512(永正9)年7月に26歳で病没した丹後守護であるが、宮津市府中の妙立寺にある逗子の墨書銘で、義有の法名を「龍勝寺殿」としているのはなぜだろう。「龍勝寺」殿は一色詮範ではないのだろうか。

 さて、「龍勝寺縁起」によると、一色満信(これは一色義俊あるいは吉原越前守かとしている)が没し一色氏が滅んだとき、彼には一男一女があった。男の子はその後、龍勝寺で出家した。これが古月和尚で一色氏最後の人物である。古月和尚は1641(寛永18)年に没し、今も龍勝寺歴代住持の墓の中に位牌型の墓石がある。なお、女の子は西舞鶴の瑞光寺で尼となった。

 龍勝寺がある行永は、古代・中世の倉橋郷にあたる。「丹後国惣田数帳」(1459(長禄3)年)では、倉橋郷の大半は延永氏が領知していると書かれている。そして延永氏はこのころ丹後国の守護代をつとめている。守護在京が原則であった室町中期には、守護代がいる所が守護の領国支配の拠点になることが多いので、行永に一色氏の菩提寺があったとしても不思議ではない。

 しかし、1467(応仁元)年からはじまった応仁の乱以後、加佐郡には若狭勢が攻め込んでいた。特に1517(永正14)年の倉橋山の戦い以後は、舞鶴東地区では若狭勢と在地勢力が台頭して最も戦いの激しい地域であり、一色氏の影響力は相当弱まっていたと思われる。そういう土地にある龍勝寺にしてなおこういう伝承が受け継がれているということは、やはり一色氏にとって龍勝寺は何かしら特別な寺院であったからだと考えざるを得ない。(ひ)

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