かたやまじょう
・舞鶴市字行永小字片山他
・遺構---曲輪、堀切 ・占地---山頂
・標高---80m ・比高---75m
・遺跡地図番号---411
この城は新舞鶴小学校グランド南側の山頂に位置する。山頂部に主郭をおき、北西方向に長さ80mの曲輪を、西方向に階段状に8段の曲輪を造成している。南東側尾根には2本の堀切が見られる。現在は竹林となっているが、削平状態は良好である。
城主について「倉梯村史」は一色氏の加佐郡陣代小西石見守としているが、詳細は不明である。
【龍勝寺と一色氏(その1)】
行永の金屋にある臨済宗龍勝寺は、春になると門前のしだれ桜が美しい古刹である。龍勝寺には「龍勝寺縁起」という一巻の巻物がある。この巻物は大正8年に書かれたものだが、ここには1395(応永2)年に一色詮範が龍勝寺に寺領150石を寄進したという記述がある。
一色詮範は1406(応永13)年に亡くなった人物だが、彼は若狭国と三河国の守護しかしていない。この人物がなぜ丹後国の龍勝寺に寄進をするのか。それは息子の満範が丹後国の守護になったからだ。
寄進の三年前の1392(明徳3)年、有力守護大名の山名氏清と山名満幸が将軍足利義満に対して反逆を起こした。山名満幸はこのときまで丹後国の守護だった。有名な明徳の乱だが、将軍の命でこの乱を鎮圧したのが細川、畠山、一色の各守護だった。この功績で細川氏は丹波国、畠山氏は山城国、そして一色詮範の子の満範は山名満幸に代わって丹後国の守護職を獲得したのだった。だから、実際に寺領を寄進したのは、父の後生を祈る一色満範であったかもしれない。いずれにしても、これが一色氏と丹後の関わりのはじまりである。
同縁起によると、一色詮範は1406(応永13)年6月に没したが、龍勝寺ではその後毎年7月9日に彼の供養をしていた。戒名は「龍勝寺院殿天宕衍公大居士」で、彼の像と伝える衣冠束帯の人物座像は、阿弥陀堂の阿弥陀如来像の左手に今も鎮座している。(ひ)
(龍勝寺と一色氏 (その2)へ続く)