舞鶴の山城40 森城

もりじょう(別名 藁谷城)

・舞鶴市字森小字池ノ谷他
・ 遺構----曲輪、堀切、竪堀、畝状空堀群、土塁 ・占地----山頂 
・ 標高----80m ・比高----60m ・遺跡地図番号----427

 この城は白鳥峠の東側を少し南に入った丸山町と、緑ヶ丘団地を隔てる山の山頂にある。現在周辺は開発され、山麓まで住宅が建てられている。

 曲輪は北曲輪と南曲輪で構成され、両者をつなぐ帯状の曲輪が西側に二段、東側には三段あるが、曲輪の削平は不十分であるため、臨時に構築された城館であろう。この城の最大の特徴は、畝状空堀群が斜面の60%に及ぶ広い範囲に敷設されていることである。

 「嶽家文書」や近世の地誌類では森村城主は高橋左吉あるいは高橋左京とある。橋本左京または橋本左京進をあげる地誌もある。「倉梯村史」は、元亀年間(1570~1573)は矢野藤平などの矢野一族が居城とし、一色氏と細川藤孝に属した高橋氏が矢野氏の没落後に入城。主君細川氏が九州に移封後、高橋氏は帰農したとしている。

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