舞鶴の山城29 堂奥二ノ谷城

どうのおくにのたにじょう

・舞鶴市字堂奥小字二ノ谷他
・遺構----曲輪、堀切 ・占地----尾根
・標高----150m ・比高----130m ・遺跡地図番号-----

 この城は倉梯山から北へ派生した細尾根に位置し、堀切で遮断して曲輪を確保している。祖母谷が溝尻城と倉梯山で狭くなった部分で、溝尻城に対する向城としては最適な場所である。城館のある尾根の両斜面の傾斜は厳しく、孤立する危険性もある。このような地形に城館を構築した例は珍しい。

城主に関する伝承や記録はない。


【矢野氏について】
 舞鶴東地区のいくつもの山城に登場する矢野氏とは何者だろうか。
 「丹後国惣田数帳」では倉梯郷167町歩余りのうち、31町歩余りを「地頭 小野寺」が支配している。矢野氏はこの小野寺氏の披官であった。

 小野寺氏は出羽に拠点をもつ武士で、京都御扶持衆の一人であった。京都御扶持衆とは室町幕府の直属の家臣で、小野寺氏はすでに足利尊氏の時代から倉梯郷について沙汰されている。1431(永享3)年には小野寺氏は倉梯郷の守護不入権を獲得しており、一色氏が立ち入れない土地となっている。倉梯郷の多くは一色氏の守護代延永氏の所領であるが、同じ郷域で背中合わせにこのような領地があることは面白い。(詳しくは舞鶴地方史研究30号 佐藤圭 1997 を参照のこと)

 矢野氏は、いつごろからかこの小野寺氏の下で倉梯郷の在地支配をまかされ、特に1517(永正14)年の延永氏の没落後に勢力を拡大したらしく、いくつもの山城で名前が登場する。1549(天文18)年には矢野備後守が山口神社の修繕をしており、1567(永禄10)年には曽保谷(祖母谷)の矢野尭栄らが田地を金剛院に寄進している。矢野氏は1575(天正3)年の織田信長の越前一向一揆の鎮圧に従っている。また、1581(天正9)年には織田信長によって丹後国内に4500石の領地を宛行われているから、比較的早く信長政権になびいたようだ。(ひ)

関連する歴史の人物

関連する人物はいません。

関連するコンテンツ