舞鶴の山城26 溝尻城

みぞじりじょう(別名 矢野山城)

・舞鶴市字溝尻小字宮ノ谷他                  
・遺構---曲輪、堀切、堅堀、虎口、土橋、櫓台、土塁 ・占地---山頂
・標高---200m ・比高---185m ・遺跡地図番号---408

 この城は堂ノ奥にある樹徳寺の裏山に位置している。遺構からは白鳥峠方面や東舞鶴湾を臨むことができる。城山は七合目付近より急斜面となり、要害性の高い立地である。

 堀切で遮断して確保した南北200mの中心部には、20m×20m、高さ2m程の櫓台がある。櫓台から北西に延びる尾根には長さ40mの細長い曲輪があり、堀切を越えてさらに西に延びる尾根上に大小の曲輪が造成されている。

 北東に派生する尾根の土橋をともなった堀切を越えると、長さ50mのデコボコの曲輪があり、東の尾根は堀切で遮断している。北東に30m程下ると、細尾根を130m程にわたって曲輪に利用した痕跡があり、尾根は志楽谷の方向に緩斜面となって下る。南西尾根上にも100m以上にわたって曲輪が造成され、南西の溝尻集落にある貴布祢神社の上には支城がある。南の樹徳寺方向に派生する尾根には堂奥城があり、溝尻城の規模の大きさを示している。

 「嶽家文書」などは、城主は矢野氏・桜井氏としており、近世の地誌でも矢野備後守あるいは矢野満俊(矢野藤平)などとしている。山口神社の棟札には1554(天文23)年に粟屋数千騎によって矢野城が攻められたという記録があり、コットイ崎(高屋城)の戦いがここまで及んだことを示している。岡野允氏は溝尻矢之助の矢野美三雄氏が城主の末孫であるという伝承を紹介している。

 1517(永正14)年に一色氏家臣の延永春信が倉橋城に立てこもり、若狭武田氏を支援する朝倉孝景の軍勢によって落城に追い込まれたという記録があるが、地形環境や遺構の規模から考察して、当城がこの戦いの舞台となった可能性もある。いずれにしても、この城は溝尻、小倉、堂ノ奥、市場にまたがっており、これら数か村を支配する国人の存在を伺わせる。

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