舞鶴の山城27 堂奥城

どうのおくじょう

・舞鶴市字堂奥小字上ノ山他
・遺構----曲輪、堀切、竪掘、畝状空堀群、土橋 ・占地----尾根
・標高----110m ・比高----80m ・遺跡地図番号 408

 この城は溝尻城から南へ派生した尾根の先端に位置し、現在は樹徳寺の西の道を通って城に登れる。この城郭は、溝尻城の南にある堂奥集落からの攻撃を想定して構築された支城であろう。

 北の尾根は二重の堀切で遮断するが、土橋を伴った構造となっており、堀切の中間には番所跡のような台地がある。曲輪の規模は東西60m南北13mの主郭に、南西斜面に三段の小曲輪と、東側堀切の南斜面に帯状の曲輪がある。主郭北斜面には東側の谷間の防禦として畝状空堀群が敷設されている。

 城主としては、「丹後国加佐郡寺社町在旧起」の堂奥村の条に、1546(天文15)年の頃、矢野備後守橘朝臣達政嫡子弥三郎政秀が城山にありとし、また元亀年間(1570~1573)には矢野藤市ともいうとしている。

関連する歴史の人物

関連する人物はいません。

関連するコンテンツ