舞鶴の山城 まぼろしの倉梯城・山口神社の棟札について

【まぼろしの倉梯城】
 若狭武田氏から「倉梯城」といわれた城郭がある。1516~7(永正13~14)年の若丹戦争で丹後国守護代延永春信が立て籠もって落城した城である。さらに、1560(永禄3)年には大成寺文書によると、若狭武田氏方として逸見氏が駐屯したと考えられる。このように、若狭丹後の守護代クラスが陣取った「倉梯城」とはどこのことか?

 舞鶴で倉梯山といわれる山はあるがこれは砲台山ともいわれ、旧日本軍によって砲台が造成されたため、山城の遺構は確認できない。そこで、古今この倉梯城をめぐって№39亀岩城・№26溝尻城・№42芥子谷城など様々な説が唱えられてきた。しかし、山城の規模からいって、溝尻城が「倉梯城」として最もふさわしいのではないかと考えている。
 ① 小倉、溝尻、堂ノ奥、市場の各字にまたがり、規模も舞鶴最大である。
 ② 曲輪の数が多く、その面積も広い。
 ③ まわりに支城や向城(付城)として造られたであろう城が存在する。
 ④ 堀切の外側にも曲輪が広がる。
 ⑤ 堀切が広く、切岸も高く、遮断が明確である。
 ⑥ 交通の要衝であり、近くに市場も存在する。
以上のような点で、舞鶴で守護・守護代クラスの城というなら溝尻城であろう。(た)


【山口神社の棟札について】
 1554(天文23)年、故あって河内に逃れていた粟屋久慶が粟屋右馬亮、熊谷彦三郎、中村某ら若州勢を引き連れて田辺に着陣、泉源寺に居住する志万遠成をはじめ、西浦権守、知中加賀守、垣内備前守、山本備前守ら志楽谷の有力者と合流してコットイ崎(高屋城)に進んだ。若狭の武田信豊は高浜の逸見駿河守に命じてコットイ崎を攻撃させたため、翌年1月7日、粟屋久慶は戦い敗れ遺書を残して死んだ。

 この戦いについては、梅垣西浦文書の「粟屋状」、「丹後国加佐郡寺社町在旧起」、縁城寺(峰山)の年代記にそれぞれ記してあるが、それはあくまでも江戸時代の記録であったり、脚色して書かれたものである。しかし、堂奥の山口神社にはもっと信頼性の高い次のような内容の棟札が残っている。

 「1554(天文23)年9月18日、粟屋氏が数千騎でこの要害に取りかかり、この谷の民家は残らず放火された。このため山口神社の宮殿も柱だけになってしまった。したがって矢野備後守が願主となって修理するものである。敵は罰が当たって1555(天文24)年正月7日全滅した。」
 
 この棟札によると、コットイ崎の戦いは堂奥にまで及んでおり、この辺りの民家も大きな被害を被った。かなりの広範囲が戦場になったものと推定される。またこの要害を矢野氏の溝尻城のことだと考えるならば、矢野氏は逸見駿河守の下で、すなわち武田信豊方で戦ったと類推できる。(ひ)

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