たなかじょう(別名 威光山城)
・舞鶴市字田中小字安井ノ奥他
・遺構----曲輪、堀切、土塁、虎口 ・占地----山頂
・標高----240m ・比高---225m ・遺跡地図番号----352
田中城は、志楽谷の中心地にあたる田中集落の北側の威光山にある。
東西に延びる尾根上に曲輪があり、その東側は二重の堀切で遮断して曲輪側に土塁がある。曲輪の造成は五段で、西側には外升形状の虎口がある。虎口の位置づけが明確であるため、曲輪は幅が狭く面積は狭いが天正初期の遺構と考えても良いであろう。
「嶽家文書」その他の近世史料は城主として大嶋(大島)但馬守をあげている。「丹後旧語集」は、大島氏は粟屋氏落城後居城したと伝え、大島志摩守道育は久美浜の伊賀氏の家臣で、志楽庄の荘園領主である西大寺によって春日部郷の代官に任じられたとしている。
「加佐郡誌」は大島氏の後、山本掃頭というものが城に拠り、五郎左衛門家または彦左衛門家の先祖となったとしている。