舞鶴の山城12 登尾城

のぼりおじょう

・舞鶴市字登尾小字元山他
・遺構---曲輪、堀切、土塁 ・占地---尾根 ・標高---170m
・比高---105m ・遺跡地図番号---334

 この城は登尾集落の南東に位置する。若狭に向かう街道はこの山麓で塩汲峠と杉山・松尾方面へと分岐する。

 曲輪からみて南側の尾根は三重の堀切で遮断している。自然地形と階段状の曲輪が60m程続く。さらに20m程の傾斜地をおいて、西側にカギ形の土塁のある小規模の曲輪があり、山麓に向かって四~五段の曲輪が造成されている。国境に近い街道を意識した城館である。

 城主に関する伝承や記録はない。


【次のステップが楽しみな河辺谷】
 何年か前、西屋地区の方に案内していただいたことがあります。
 あの山に山城があった。ここは戦場(小字千丈)・あそこが勝負(小字勝負)・そこが幟立(小字登立)、谷の奧には供養塔が沢山ある。ここはお方さまという偉い方のお屋敷があったところ。ところがお方さまは、年貢を取るときには大きな枡(納枡)を、米を貸すときには小さな枡(下行(げぎょう)枡)を使ったため、強欲な方だと村人達に殺された。中田地区の和田さんは「ノブナガ」の家来であった。等々・・・お話は尽きませんでした。

 後に知りました。河部(河辺)村公文分として大方殿様の土地が五町百五十歩あったこと。和田さんの先祖が中田清左右衛門で、1522(大永2)年に書かれた和田家文書には、「源六殿様(とのさま)へ御侘言申上候由」と1517(永正14)年に武田氏に滅ぼされて行方不明になった源六殿様(延永春信)の名が出てくること。細川が丹後入国3年後の1583(天正11)年、まだ政情不安な状況のなかで逸見蔵人なる人物を従えて、丹後で最初に演能を行ったのが河辺八幡神社であったこと。

 河辺谷には、まだまだ面白い伝承や事実がありそうです。次のステップが楽しみな地域ですねー。(と)

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