江戸時代、いくつかの藩において領内の孝行者をまとめた孝子伝、孝義録というものが編纂された。またその動きに伴い、享保元年(1801)に、幕府老中松平定信の命令により、全国版の孝子伝が作成され、刊行された。これが『官刻孝義録』である。この『官刻孝義録』には、人々の手本にふさわしいとして選ばれた、約8600人の孝行者が掲載されている。その中で、丹後国において事例が紹介されているのは、岡田由里村武左衛門夫婦と公文名村源太郎の2件のみである。
この公文名村の源太郎という人物は、7才の頃から病身の母を献身的に介抱した。友達と遊んでいる中でも母を心配して時々帰り、また髪に虱(シラミ)がつけばこれを取る。これに対して母も、「源太郎ハわが子にてはあらじ、恐らくハ氏神なるべし」と感動するばかりである。この源太郎の孝行さは藩主まで聞き届き、明和5年(1768)4月に源太郎は14才にして蔵米が渡され、賞された。
【図 「田辺孝子伝」公文名村伊左衛門子源太郎】
原文
六公文名村伊左衛門子源太郎
公文名村の民、伊左衛門が子源太郎、父母に事へて孝なり。父伊左衛門家貧しけれバ、日雇あるひハ駄賃持をなして渡世とす。源太郎七才の頃より、母病の床に臥て、次第におもり、手足自由を得ず、たゞ仰向に寝て年を過しける。家にありて介抱なすときハ、露命をつなぐ手便あらざれバ、詮方なく、病人をすておき、日々稼ぎに出て、家にある事まれなり。源太郎幼き事なれバ、近所へあそびに出るといへども、子ども心に、母の難病をかなしミ、折々家にかへり、母の望ミ事なきやと問ひ、有れバ望をたつしぬ。良成長したがひ、山へ樵に行けるときなども、友の子どもハ休ミ帰らんといへるを、源太郎壱人ハ先へかへり、まづ母にまミえ安否を問ひ、食をすゝめてのち、己も食し、両便の世話ハいふにおよばす、或ときハ沐浴をさせ、長病の事なれバ、髪に虱生じて、母の難儀を見かねて日々にとり終に取たやしけるとかや。其節母源太郎にむかひていひけるハ、斯く虱まで生じて、其方へ苦労をかけんより、寧死するにしかじ、此のちハ食をたべさせくれまじといへるを、孝子ことの外かなしミて、いかなることあるとても、御命さへ存らへたまはゞ、いかばかり嬉しからん。必々左やうなることのたまふべからずといさめ、且宥めけることも有けり。近所の者病気見舞に行て、さだめて長病にて難義なるべしと問へバ、いやとよ源太郎奇特に介抱なし、くるゝゆゑに、すこしも不自由なることなし。只源太郎ハわが子にてはあらじ、恐らくハ氏神なるべしとありし事ども物がたり歓びけるを聞人あはれを催さゞる者なし。此源太郎の行状、明和五年子四月上聴に達し奉りけれバ、君にも其幼くしてかゝる孝状を感歎したまひ且歓びたまひて、同月廿五日厚く賞し、その上御蔵米を若干賜ふ、此時源太郎十四歳になりける。其幼ふしてためし少き志なりと、きくもの賞せざるはなし。家貧にして素より教もあらず、善師友なくして其孝志のあつき事天性の善質なるべし。猶生立いかゞありしや、後の行状つたへざることの恨ミすくなからず。
(出典:『田辺孝子伝』(広瀬宗栄、1928、舞鶴町立図書館)、国立国会図書館所蔵、info:ndljp/pid/1190762)