細川忠興の年表

西暦和暦出来事関連出典
1577天正5年丁丑101藤孝の男忠興・興元、同城へ一番乗りして高名を立てる
1578天正6年戊寅8 信長、明智光秀の娘玉を長岡藤孝の嫡男忠興に嫁がしめる上625 
1580天正8年庚辰817藤孝・忠興および明智光秀、与謝郡江尻村を充所とする三名連署の禁制を下す上610 
1581天正9年辛巳112藤孝・忠興、加佐郡多祢寺に寺領を安堵する上613 
1581天正9年辛巳113藤孝・忠興、加佐郡観音寺に寺領を安堵する上613 
1582天正10年壬午29信長、甲斐国攻略に長岡忠興と一色五郎の出陣を命じる上584信長公記
1582天正10年壬午35長岡忠興、武田勝頼退治のため信長に従って信濃国へ出陣する上621綿考輯録
1582天正10年壬午63忠興、備中国に出陣せんとし、この日、その先鋒が宮津城を発する 半日ばかり押し出し犬ノ堂まで至ったころ、京都よりの飛脚が本能寺の変報を注進、兵を引き返す上621綿考輯録
1582天正10年壬午63藤孝、弑逆された信長の多年の恩を謝すべく剃髪し、幽斎玄旨と号する 藤孝はこの時より隠居し、忠興が家督を相続したとされる(写真14)上622綿考輯録
1582天正10年壬午69明智光秀、藤孝・忠興に対して、摂津国か、望まれれば但馬・若狭国を宛行うから上洛するよう誘う 藤孝・忠興、これに応じず光秀知行の丹波国へ攻め入って端城二か所を占領、この旨を羽柴秀吉に注進する また、忠興の室明智氏を与謝郡味土野の山中に幽閉する(写真15)上622 
1582天正10年壬午711羽柴秀吉、丹後国へ使者を遣わし、藤孝・忠興に対して身上を安堵すること、隔意のない交際をすることなど記した起請文を送る上624 
1582天正10年壬午711秀吉、忠興に丹後国内の明智方領地を一職支配あるべき旨達する上624 
1582天正10年壬午8 忠興、上洛して秀吉に対面する上625 
1582天正10年壬午98忠興、一色氏を宮津城に誘殺する 次いで一色氏居城弓木城を攻めてこれを奪取する(丹後守護職家一色氏の滅亡)上586 
1582天正10年壬午11 忠興、織田信孝討伐のため、秀吉が美濃国打入りに先手として加わり、戦功を立てる上625綿考輯録
1583天正11年癸未閏1 忠興、秀吉の伊勢国攻略に出陣する上625 
1583天正11年癸未4 忠興、秀吉の命により柴田勝家支配の越前国へ水軍を派遣して同国の浦々を焼き払い、由良湊の守備兵を討ち取る上626綿考輯録
1583天正11年癸未815忠興、川辺宮において能興行、番組は式三番・高砂・東岸居士ほか上1232 
1583天正11年癸未117忠興、智恩寺文殊堂に禁制を下す上612智恩寺文書
1584天正12年甲申49忠興、尾張国長久手の合戦で秀吉に従い出陣する上626綿考輯録
1584天正12年甲申81忠興、円隆寺において能興行、番組は式三番・志賀・源氏供養ほか上1232 
1585天正13年乙酉3 忠興、紀伊国根来・雑賀一揆鎮圧に出陣する上626 
1585天正13年乙酉711忠興、従四位下・侍従に叙任のみぎり、羽柴秀吉より羽柴氏を与えられる上630綿考輯録
1585天正13年乙酉8 忠興、秀吉の越中国平定に出陣し、同国富山城を攻略する 綿考輯録
1586天正14年丙戌1224忠興、智恩寺に対して同寺祠堂米銭の運用を許可する 智恩寺文書
1587天正15年丁亥31忠興、秀吉西征の先手として出勢する上626綿考輯録
1588天正16戊子125忠興、熊野郡宗雲寺に高50石の地・境内竹木を寄進する 宗雲寺文書
1588天正16戊子62忠興、織田信長の七回忌に当たり、宮津城下に泰巌寺を建立し法事を執り行う(同時、慶長6豊前へ移築) 綿考輯録
1588天正16戊子117忠興、田辺新殿において能興行、番組は式三番・老松上1232 
1589天正17年己丑927秀吉、忠興・幽斎に丹後国11万700石全部を宛行い、軍役として忠興3000人、幽斎1000人を課する上631 
1590天正18年庚寅225忠興、軍勢2700人を率いて小田原城征伐に出立する上626綿考輯録
1591天正19年辛卯閏117忠興、代官の服務上における労働・資材徴発、諸貢納、貸米、斬捨、産物売買、飯米・切米支給、斗桝使用などについての規制を記した定書を代官中へ下す上617 
1592天正20年
(文禄元年)壬辰
225忠興、宮津城を出発し、肥前国名護屋に向う 史料綜覧
1592天正20年
(文禄元年)壬辰
313忠興、秀吉より朝鮮出兵の軍役3500人を命じられる上626 
1592天正20年
(文禄元年)壬辰
4 忠興、壱岐国に在陣、同国風本の湊で秀吉の泊り座所普請に当たる その後、対馬国へ渡るよう仰せ出される上630綿考輯録
1592天正20年
(文禄元年)壬辰
63秀吉、忠興に対馬国より渡海を命じる上630綿考輯録
史料綜覧
1592天正20年
(文禄元年)壬辰
617忠興、軍勢3500人を率いて朝鮮釜山浦に上陸  
1593文禄2年癸巳310忠興、晋山城を攻略、重臣有吉立行・米田是政らが負傷するなど多大の損害をこうむる上630綿考輯録
1593文禄2年癸巳閏916忠興、朝鮮より帰り、秀吉に謁する 史料綜覧
1595文禄4年乙未318忠興、瑞光寺庭において能興行、番組は式三番・志賀・田村ほか上1232 
1595文禄4年乙未7 忠興、豊臣秀次より黄金100枚を受けていたことにつき、秀吉の疑いをこうむる上630 
1596文禄5年
(慶長元年)丙申
92忠興、秀吉が伏見城において明国使節を引見した際、奏者の役を勤める ただし、史料綜覧は、秀吉の明使引見は9・1大坂城におけることとする上630綿考輯録
1597慶長2年丁酉123忠興、田辺城において能興行、番組は鵜羽・真盛・源氏供養ほか上1233 
1597慶長2年丁酉211忠興、田辺主殿において能興行、番組は式三番・羽衣・田村ほか上1233 
1598慶長3年戊戌1227忠興、田辺城中において能興行、番組は老松・江口・大会ほか上1234 
1599慶長4年己亥18忠興、田辺城中において能興行、番組は小塩・千手・延守ほか上1234 
1599慶長4年己亥8 忠興、前田利長の隠謀に加担しているとの風聞立ち、徳川家康の嫌疑を受けてその使者に虚実を糺明される上630徳川実紀
1599慶長4年己亥1024幽斎、忠興は家康に対し毛頭疎略なきの旨の誓紙を、次子興元・重臣松井康之と連判で提出する上630綿考輯録
1599慶長4年己亥11 忠興、宮津より大坂へ至り、家康に別心疎略なく下知に違背申すまじき旨の誓紙を提出する上630綿考輯録
1599慶長4年己亥  忠興、加佐郡和江村地先の由良川へ突出した岬が、洪水時に濁流を遮って水害をもたらしていたので、これを防止するため岬を掘削する ただし岬端の岩盤が硬くて除去できず、河中に島(瀬戸島)となって残る(大正2年除去)上799加佐郡誌
1600慶長5年庚子125忠興、三男光千代(忠利)を人質として江戸に出す上630綿考輯録
1600慶長5年庚子27家康、忠興に大坂の台所領として、豊後国速見郡杵築で高6万石の地を加増する上632綿考輯録
史料綜覧
1600慶長5年庚子55忠興、大坂城において、会津征伐の大坂よりの先手を仰せつけられる上641 
1600慶長5年庚子616忠興、士卒を率いて東下するに当たり、陣中掟を定める上641 
1600慶長5年庚子619忠興、人質に出した光千代が徳川秀忠に従い会津征伐に加わるため、これに具足を送る 史料綜覧
1600慶長5年庚子627忠興、宮津を出立する  
1600慶長5年庚子83忠興、伊豆国三島着上644 
1600慶長5年庚子812徳川家康、忠興の助勢を賞して但馬一国を加増する旨伝える上647 
1600慶長5年庚子915忠興、美濃国関ヶ原の合戦において、東軍の右翼に布陣、西軍を猛撃して戦功をあげる上644 
1600慶長5年庚子918家康、本陣近江国八幡山城に伺候した忠興へ、急ぎ帰国して籠城中の田辺の後詰をするよう仰せつける上644 
1600慶長5年庚子919忠興、丹波国馬堀において、上洛途中の幽斎と父子対面する上644 
1600慶長5年庚子927忠興、これより先、家康に田辺城寄手大将小野木公郷の福知山城攻略を伺い出、この日、城攻めを開始する上646 
1600慶長5年庚子929忠興、福知山攻城戦中のこの日、由良川を福知山から加佐郡中山の城まで川舟で下り、それより陸路田辺に入って実母をはじめ家族と対面する のち福知山へ引き返す上646綿考輯録
1600慶長5年庚子102忠興、宮津珠光庵先住の悪逆を理由に同庵を没収し、同寺領とも桂林寺へ与える上663 
1600慶長5年庚子112家康、関ヶ原の戦いの功により、忠興に豊前一国と豊後国のうち速見・国東郡とを宛行う上647 
1600慶長5年庚子127忠興、豊前国中津へ向けて出発、与謝峠を越えて丹後国を去る上673 

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