細川幽斎の年表

西暦和暦出来事関連出典
1554天文23年甲寅616細川藤孝、養父元常没したため家督を相続する 居城山城国青竜寺城(現長岡京市勝竜寺) 領知3000貫文綿考輯録
1565永禄8年乙丑728細川藤孝、弑逆された将軍義輝の弟一乗院覚慶(足利義昭)を幽所から脱出させ、これを案内して近江国和田秀盛に頼る 次いで同国矢嶋へ移る上580綿考輯録
史料綜覧
1566永禄9年丙寅829細川藤孝、足利義秋(義昭)を擁して若狭国武田義統に頼る上580綿考輯録
史料綜覧
1566永禄9年丙寅919藤孝、足利義秋を供奉して越前国へ赴く 10・21同国府中竜門寺に入る 綿考輯録
1567永禄10年丁卯225細川藤孝、足利義秋を供奉して朝倉義景の居館一乗谷へ移る上580綿考輯録
1568永禄11年戊辰623細川藤孝、足利義昭の使者として美濃国岐阜に赴き、明智光秀を介して織田信長と会い、義昭上洛の支援を頼む 綿考輯録
1568永禄11年戊辰716藤孝、足利義昭を供奉して一乗谷を出駕上580綿考輯録
1568永禄11年戊辰97藤孝、兵を率いて京都へ向け岐阜を出発する信長に随従上580信長公記
綿考輯録
1568永禄11年戊辰1018藤孝、足利義昭将軍宣下の規式をことごとく仰せつけられる 綿考輯録
1571元亀2年辛未82細川藤孝、摂津国池田城を攻め、池田勝正に同国原田城を守らせる上580史料綜覧
1572元亀3年壬申9 細川藤孝、信長の命により9・中旬~11・末、摂津・河内国に出陣して三好義継らと対戦、吹田・茨木等の諸城を攻め落す上580綿考輯録
1572元亀3年壬申126藤孝、三条西実澄(実枝)より古今伝授の儀を内々仰せいれられ、古今相伝誓状を提出する 綿考輯録
1573元亀4年
(天正元年)癸酉
1 細川藤孝、信長と不和になった将軍義昭を諌めて両者を和睦さすが、以後、将軍は藤孝を疎じるようになる上581綿考輯録
1573元亀4年
(天正元年)癸酉
710藤孝、信長より本領に加禄して山城国桂川以西の地(長岡)を宛行われる これより細川を改め長岡姓を称する(元和元・12・24細川姓に復する)(写真13)上581綿考輯録
1573元亀4年
(天正元年)癸酉
716長岡藤孝、信長の槇島城攻略に参陣 信長公記
綿考輯録
1573元亀4年
(天正元年)癸酉
1116藤孝、丹羽・佐久間らと河内国若江城に三好義継を攻めて自殺させる 綿考輯録
1574天正2年甲戌7 藤孝、7月下旬~9月末、石山本願寺・三好一族との戦いに河内・摂津国へ出陣する上581綿考輯録
1575天正3年乙亥4 藤孝、信長が三好一族討伐のための摂河出馬に参加、戦功を立てる上581綿考輯録
1575天正3年乙亥812藤孝、信長の一向一揆退治に先手として越前国へ発向する上581綿考輯録
1575天正3年乙亥104信長、藤孝に対し越前一向一揆攻めの戦功を褒めるとともに、播磨・丹後国の情況報告を了承、今後の情報注進を命じる上574 
1575天正3年乙亥108信長、藤孝に播磨・丹後情勢の再度の注進を賞する上574 
1576天正4年丙子57藤孝、信長下知のもと、摂津国石山城攻略で佐久間・松永らと先陣を勤める上581綿考輯録
1576天正4年丙子67信長安土帰城後、明智光秀・長岡藤孝はとどまって一揆と戦う  
1577天正5年丁丑213藤孝、石山本願寺に助力する畠山貞政、紀伊国雑賀・根来一揆を退治のため和泉国へ攻め入る上625綿考輯録
1577天正5年丁丑929藤孝・筒井順慶・明智光秀、信長に離反した松永久秀の家老森秀光らの籠城する大和国片岡城を攻囲する上625綿考輯録
1577天正5年丁丑101藤孝の男忠興・興元、同城へ一番乗りして高名を立てる  
1577天正5年丁丑105藤孝、織田信忠の松永久秀居城大和国信貴城攻撃に加勢する上625綿考輯録
1577天正5年丁丑1029明智光秀・長岡藤孝、信長の命により丹波国へ入り諸城を攻める この日、籾井城を占領する上575史料綜覧
1578天正6年戊寅34藤孝、丹羽長秀ら、信長の命により丹波国へ入り、明智光秀を援けて波多野秀治を八上城に攻める 史料綜覧
1578天正6年戊寅4 明智光秀・長岡藤孝、丹後国へ攻め入り一色氏の属城を次つぎ撃ち破るが上576綿考輯録
1578天正6年戊寅8 信長、明智光秀の娘玉を長岡藤孝の嫡男忠興に嫁がしめる上625 
1578天正6年戊寅9 明智光秀・長岡藤孝ら、丹波国へ入り長沢義遠を小山城に攻めてこれを殺す 次いで高山・馬堀城等を攻略する 史料綜覧
1578天正6年戊寅1114藤孝、明智光秀・丹羽長秀その他諸将とともに、離反した摂津国有岡(伊丹)城主荒木村重退治のため、同国へ出陣の信長の下知をうけ伊丹表に攻め入る 綿考輯録
1579天正7年己卯7 明智光秀・長岡藤孝、丹後国峰山城に丹波国波多野氏の余党を攻めてこれを破る また、弓木城に立てこもる一色氏を攻囲して降伏さす その他諸城も陥落、同国を平定する上577 
1580天正8年庚辰7 信長、明智光秀・長岡藤孝を安土城に召して、光秀に丹波国、藤孝に丹後国を宛行う上561綿考輯録
1580天正8年庚辰82藤孝、山城国長岡青竜寺城より丹後国宮津八幡山城に入る上581 
1580天正8年庚辰813信長、藤孝が丹後到着を報告したのに対し、明智光秀と相談して政道を油断なく行うよう申しつける上581 
1580天正8年庚辰817藤孝・忠興および明智光秀、与謝郡江尻村を充所とする三名連署の禁制を下す上610 
1580天正8年庚辰821信長、藤孝が宮津浜に築城を願い出たのに対し許可を与え、城普請を急ぎたい由であるが光秀と相談して堅固に築くよう申しつける上582 
1580天正8年庚辰822信長、藤孝・光秀よりの、野心を抱き伺候しない吉原西雲(元峰山城主)を討ち果した旨の注進に、承知した由を伝えるとともに万時油断なく措置するよう申しつける上583 
1580天正8年庚辰925藤孝・忠興、与謝郡智恩寺に寺領を安堵する上612 
1580天正8年庚辰9 藤孝・忠興、与謝郡成相寺に連署の禁制を下す上611 
1581天正9年辛巳123信長、明智光秀に対し、京都で挙行する馬揃(観兵式)に出場する人員について指令、丹後国では長岡藤孝男二人と一色五郎が騎乗するよう通知を命じる上586 
1581天正9年辛巳35信長、藤孝に対して、丹後国の検地を実施し、給人から徴した指出分をそれぞれ同人へ宛行い、余り分は藤孝の処置に任せて軍役以下を申しつける旨命じる上588 
1581天正9年辛巳412藤孝、明智光秀父子三人・紹巴・宗及・宗二・道是を丹後国に招く この日、光秀・藤孝・紹巴で連歌(史料) 宗及茶湯日記
1581天正9年辛巳7 藤孝、信長から水軍による因幡国海上封鎖指令を受け、同国鳥取城へ向けて重臣松井康之ら率いる軍船を出発さす 途中、味方の諸城に兵糧を入れ敵船を撃退しながら上620 
1581天正9年辛巳811藤孝、智恩寺に検地田畠高37石4斗3升4合を安堵する上588 
1581天正9年辛巳811藤孝、与謝郡金剛心院に土地9反95歩と門前被官・同屋敷・寺屋敷を安堵する上613金剛心院文書
1581天正9年辛巳823信長、藤孝の因幡国出陣活動報告に対し、周到な作戦を申しつける上621 
1581天正9年辛巳94信長、藤孝に対して、矢野藤一(一色氏旧臣)所領の検地高から知行分4500石を藤一へ宛行い、残り分は藤孝が支配するよう申しつける上592 
1581天正9年辛巳94信長、藤孝に対して、一色氏所領の検地出目高は明智光秀へ預け置くから、光秀と相談するよう申しつける上592 
1581天正9年辛巳97信長、明智光秀に対して、一色氏の知行分は20000石を同氏所領検地高のうちから宛行い、残り分は長岡藤孝へ与えると申しつける上592 
1581天正9年辛巳916信長、藤孝の水軍が伯耆国まで出撃して敵船65艘を沈め、敵兵を打ち破るなど比類ない働きをしたことを賞する上621 
1581天正9年辛巳924信長、藤孝の水軍が二度にわたり出雲・伯耆国境へ出撃して敵船数艘を撃沈、首級25をあげた戦功を賞する 綿考輯録
1581天正9年辛巳1028藤孝、成相寺に田畠100石9合3勺6才を寄進する上593 
1581天正9年辛巳112藤孝・忠興、加佐郡多祢寺に寺領を安堵する上613 
1581天正9年辛巳113藤孝・忠興、加佐郡観音寺に寺領を安堵する上613 
1582天正10年壬午424信長、一色五郎・長岡藤孝に対し、備中国へ進攻した羽柴秀吉の助勢に、一報次第出発できるよう用意しておく旨を申しつける上584 
1582天正10年壬午63藤孝、弑逆された信長の多年の恩を謝すべく剃髪し、幽斎玄旨と号する 藤孝はこの時より隠居し、忠興が家督を相続したとされる(写真14)上622綿考輯録
1582天正10年壬午69明智光秀、藤孝・忠興に対して、摂津国か、望まれれば但馬・若狭国を宛行うから上洛するよう誘う 藤孝・忠興、これに応じず光秀知行の丹波国へ攻め入って端城二か所を占領、この旨を羽柴秀吉に注進する また、忠興の室明智氏を与謝郡味土野の山中に幽閉する(写真15)上622 
1582天正10年壬午711羽柴秀吉、丹後国へ使者を遣わし、藤孝・忠興に対して身上を安堵すること、隔意のない交際をすることなど記した起請文を送る上624 
1582天正10年壬午811藤孝、智恩寺文殊堂の寺領2町1反を安堵する 智恩寺文書
1582天正10年壬午1112藤孝、秀吉を山城国山崎城に訪う 史料綜覧
1583天正11年癸未83幽斎玄旨(藤孝)、加佐郡桂林寺に同寺山林・門前屋敷・寺領8町・30石を安堵する上614 
1584天正12年甲申820連歌師里村昌叱、丹後国田辺に遊ぶ この日、幽斎、昌叱らと連歌を催す 史料綜覧
1586天正14年丙戌41秀吉、玄旨(幽斎)に在洛の料として、山城国西岡の勝竜寺・神足・上之野・石見で合計高3000石の地を与える上631綿考輯録
1587天正15年丁亥421幽斎、秀吉西征のお供をするため田辺より乗船、出帆する 綿考輯録
1589天正17年己丑927秀吉、忠興・幽斎に丹後国11万700石全部を宛行い、軍役として忠興3000人、幽斎1000人を課する上631 
1592天正20年
(文禄元年)壬辰
4 幽斎、秀吉西征のお供をするため田辺より乗船、出帆する朝鮮出兵につき見廻り役として、丹後国より船で肥前国名護屋へ向かう上630 
1594文禄3年甲午8 玄旨(幽斎)、加佐郡金剛院に禁制を下す上612 
1595文禄4年乙未6 幽斎、秀吉の命により薩摩国へ下向、薩摩・大隅・日向国の検地を行う上632 
1595文禄4年乙未74幽斎、三国検地の功により高3000石の地を拝領、この日、島津義弘・義久、その拝領地を大隅国肝付郡内の三か村とする旨を藤孝へ書き送る上632綿考輯録
1596文禄5年
(慶長元年)丙申
92幽斎、秀吉の仰せにより、明国使節の旅館へ赴き会釈をする 綿考輯録
1599慶長4年己亥125幽斎の薩摩(大隅)国内知行地3000石、越前国府中に替地させられる上632綿考輯録
1599慶長4年己亥1024幽斎、忠興は家康に対し毛頭疎略なきの旨の誓紙を、次子興元・重臣松井康之と連判で提出する上630綿考輯録
1600慶長5年庚子718幽斎、大坂の変報に接し、宮津・久美浜・嶺山など諸城を焼却、士卒を田辺城へ集結して同城の守備を固める上652 
1600慶長5年庚子719幽斎、八条宮智仁親王に古今相伝の書類を授与するゆえ使者を派遣されたい旨、同宮侍臣へ申し入れる上658 
1600慶長5年庚子727八条宮の使者大石甚助、田辺に到着、幽斎へ大坂方と和睦し開城するようにとの同宮の勧告を伝えたが、幽斎これを辞する上658 
1600慶長5年庚子729幽斎、八条宮に同侍臣大石甚助を通じて、古今相伝の箱とその証明状を授ける(古今伝授)上658 
1600慶長5年庚子83幽斎、東条行長に案外の籠城や古今伝授のことを記した書状を送る上658 
1600慶長5年庚子87八条宮や中院通勝・冨小路秀直ら公家、これより先、幽斎の救助につき大坂奉行前田玄以と交渉する この日、石田三成、禁中からの断りにより叡慮に任せ、幽斎を助命する旨を佐竹義宣へ知らせる上661 
1600慶長5年庚子918幽斎、田辺城を退き上662 
1600慶長5年庚子919忠興、丹波国馬堀において、上洛途中の幽斎と父子対面する上644 

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