6月 まるまる舞鶴 今日は何の日

2023年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

6月1日

今日は、1891年(明治24)気象台、1902年(明治35)余部町、1948年(昭和23)府立舞鶴児童相談所、1954年(昭和29)倉梯公民館など、設置の多い日です。

また、1939年(昭和14)新舞鶴駅→東舞鶴駅、新舞鶴港駅→東舞鶴港駅など、改称も多い日です。新しいことのはじまりです。

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1582年(天正10)6月3日

細川忠興、備中国に出陣途中、この日、その先鋒が宮津城を発する。半日ばかり押し出し天橋立付近の犬ノ堂まで至ったころ、京都よりの飛脚が本能寺の変を注進して、兵を引き返した。細川藤孝は、信長への恩のため剃髪し幽斎玄旨と号する。

本能寺の変の翌日、丹後も急変します。そして10年後の1592年、秀吉によって、忠興は対馬国より渡海を命じられます。10年で関係は大きく変わります。

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1877年(明治10)6月5日

舞鶴(24人)、福知山(26人)、綾部(26人)、山家(14人)、宮津(若干名)の士族を巡査に任命

『明治十年 京都府布令書』によると、2月28日第七区域方面出張所等と呼ばれていたものが、宮津警察署・舞鶴分署、峰山警察署・久美浜分署と改称しています。

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1794年(寛政6)6月7日

5ツ時、円隆寺町出火、竃50軒焼失する

この年は、3月7日辰上刻、引土町出火で44軒、6月9日9ツ時、城内三ノ丸近所で出火し17軒が焼失します。火事が多い年ですが、6月2日から8月17日まで75日間、大日照りとあり、この時、晴天が続き乾燥していたと思われます。

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1582年(天正10)6月9日

明智光秀、藤孝、忠興に対して、摂津国か、望まれれば但馬、若狭国を宛行うから上洛するよう誘う。

光秀は、この書状の前半で、細川父子がもとゆい(髻)を切ったことに腹を立てたが、余儀ないことと理解したと述べています(『舞鶴市史』上)。

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1814年(文化11)6月11日

藩、去年各大庄屋組ごとに割りつけた調達金残り半高銀7貫500匁の上納を指示する。

この調達金は、前年各組銀15貫匁ずつ割りつけ、2年にわけて分納させています。領民から藩への上納・借用は、先納銀・御用銀・御頼銀、頼母子講があります。

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1829年(文政12)6月12日

池之内組大庄屋、当組割当て先納銀6月分を上納する。

昨日紹介した先納銀は、秋に収穫する米をその年の春・夏に銀で先取りするものです。文化10年は3~5月の3回実施されました。

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1946年(昭和21)6月15日

市立舞鶴幼稚園、再開につき開園式挙行

舞鶴幼稚園は昭和20年3月に戦争が激化し休園し、1年3ヶ月ぶりの開園でした。明治17年(1884)に開園し、現存するものでは全国で6番目に古い幼稚園です。

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1600年(慶長5)6月16日

忠興、士卒を率いて東下するに当たり、陣中掟を定める

細川忠興は、5月5日大坂城において、会津征伐の大坂よりの先手を仰せつけられています。関ヶ原の戦につながります。

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1865年(慶応元)6月18日

町年寄、藩主の陣中武運長久のため朝代社、大川社、愛宕社において、6月22~24日の間、軍神祭祈祷執行し御札を献上すること、町方は3日間一統参詣することを達する。

史料には、藩主が大坂に到着、初穂料を軒別5分づつ徴集したと記されています。

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1932年(昭和7)6月19日

連合艦隊舞鶴入港、三舞鶴町挙げて歓迎

この連合艦隊、山口県北部の油谷湾から19日舞鶴へ入港し、24日新潟へ向け出港しました。この内、軍艦由良は、22日由良村民の有志・小学生計430名を乗せて舞鶴を出発しました。

軍艦由良は、主砲の一斉発射など戦闘教練を行い、天橋立を経由し、由良沖に回航します。23日乗員は、由良神社で上海出動凱旋奉告祭に参加し、村民の家庭を訪問したり、活動写真の上映など交流します。24日朝由良を出航し連合艦隊に合流しました。

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1735年(享保20)6月22日

昼4ツ時、由良川筋大水、郡内の死者400余人、丹波国より川口へ流れ来る牛馬そのほか言語に及ばず。

この洪水は「卯の年の大洪水」と呼ばれ、上流の福知山の筈巻村では、5丈(15メートル)も増水しました(『福知山市史』3)。

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1964年(昭和39)6月24日

市親善使節団(団長佐谷市長)、ナホトカ市訪問

ナホトカはソ連からの引揚港でした。昭和33年6月日ソ定期航路の寄港地に舞鶴港が指定されました。8月佐谷市長がナホトカ市長に姉妹都市提携を提案し、昭和36年6月姉妹都市盟約を調印します。

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1858年(安政5)6月26日

藩、年貢未進に関して、申し聞かせていないのか、心得違いの者があるようで不埒と達する

同じ6月、藩は年越しの狐狩りががさつなので停止することを達する。狐狩りについてはこちらを参照。

とんどと狐狩り

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1864年(元治元)6月28日

藩、町方にて蚕を飼う者が、飼料の手当てもせず市中近辺の持主ある桑園より無断で桑摘みした場合、罰すると達する。

文化11年「蚕飼絹篩大成」によると、洪水の常襲地であった由良川地域で桑がよく繁茂し、養蚕が繁盛するようになったとあります。

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1863年(文久3)6月29日

藩、外国船がいつ渡来するか分からず、かつ京都に近いので警固の指示もあるかもしれない。その場合は軍役を申しつけると達する。

5月にも同内容の触が出ており、異国船渡来の際、上下力を合せ防御するため、村々へ鉄砲100挺を渡したとあります。

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1813年(文化10)6月

藩、奥州より養蚕巧者尾方庄十郎を招き、二ヶ村において蚕を飼わせ、同村民2人にその方法を習い受けさす。

この二ヶ村も由良川沿いですが、領内全体へ養蚕技術を普及・向上させるため、奥州からの技術者招聘です

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