7月 まるまる舞鶴 今日は何の日

2023年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

1740年(元文5)7月1日

大雨降り大洪水、藩内痛み高1万2000石余りとなる、全国大凶作。

この日、讃岐・阿波・越前でも大雨が降り大洪水となっています。田辺では、2年前の元文3年にも、5月7日から6月2日まで雨が降り、6月3日から27日まで雨が降らず、大悪作となりました。

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1929年(昭和4)7月3日

「舞鶴小唄」(時雨音羽作詞、中山晋平作曲)公表会開催(舞鶴幼稚園)

中山晋平は舞鶴町の招きで同年5月29日~6月1日に舞鶴で滞在し(『舞鶴市史』各説編)、およそ1ヶ月で「舞鶴小唄」を作曲しています。

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1857年(安政4)7月4日

藩役人(家老1人、奉行2人、代官5人、同心4人)野形見分のため巡在する この日、朝来中村泊り

野形見分は、田畑の生育状況を確認するための藩役人の巡郷と思われます。18世紀中期までは野成見分とも呼ばれました。

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1783年(天明3)7月5日

8日まで大太鼓打つごとく鳴り不思議と話した、その後、聞くところ信州浅間岳が割れ、その割れ口より泥砂吹き出し人家の損害数知れず、前代未聞という

浅間山は8日に大噴火を起こします。火山灰により気温が低下し、天明の飢饉の原因となりました

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1602年(慶長7)7月8日

神崎村、検地が施行される

これは、京極高知による慶長検地です。高知は、前年3月田辺に入城しました。この後、18日成生、浜村、20日大波村、26日倉谷村、29日冨室村と続きます。

詳しくはこちらを参照。https://marumaru.kpu-his.jp/column/2023/03/1336

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1841年(天保12)7月9日

藩、竹木の売買につき、他所より買取り、他所より他所へ通り抜け、領分より他所へ差出し、寺領より村方へ申し請けの節などの手続きを達する

5月19日百姓の腰林・持藪の竹木に関して、藩へ届けていない他所売が禁止されました。これに続く触です。

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1573年(元亀4)7月10日

藤孝、信長より本領に加禄して山城国桂川以西の地(長岡)を宛行われる これより細川を改め長岡姓を称する(元和元年細川姓に復する)

細川藤孝は、信長より「桂川西地一職」(革島文書)支配を承認されました。この地は西岡とも呼ばれていました。

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1582年(天正10)7月11日

羽柴秀吉、丹後国へ使者を遣わし、藤孝、忠興に対して身上を安堵し、隔意のない交際をするなど記した起請文を送る。

この使者は、秀吉が山崎の戦いで光秀を破り、清洲会議で主導権を握った後となります。---

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1937年(昭和12)7月14日

第1回舞鶴要港付近町村連合防空演習実施

舞鶴幼稚園資料の「自由画帖」には、当時の園児が描いた防空演習の画があります。灯火管制や航空機などが描かれた貴重な資料です。

舞鶴幼稚園資料については、こちらを参照。

https://marumaru.kpu-his.jp/column/2023/03/931

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1960年(昭和35)7月16日

旧軍港市転換法施行10周年記念生活展開催

旧軍港市転換法とは、1950年6月28日に公布され、第一条には、旧軍港市(横須賀・呉・佐世保・舞鶴市)を平和産業港湾都市に転換し、平和日本実現の理想達成に寄与することを目的とする、とあります。

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1600年(慶長5)7月17日

石田三成の大名妻子の人質要請を、細川忠興室ガラシャは拒み、この日、大坂玉造の長岡邸で自害する

この記事は『史料綜覧』を参考にしています。「大日本史料総合データベース」で検索でき、「史料稿本」には、小笠原秀清、河北一成も登場します。

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1949年(昭和24)7月18日

みなと祭催される(7月20日海の記念日を中心に記念式典等実施)

今年7月30日開催の「みなと舞鶴ちゃったまつり」は43回目、昭和50年から開催のようですが、関係あるのでしょうか。現在の海の日は、祝日になる前は「海の記念日」でした。----

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1897年(明治30)7月19日

水産巡回教師牛窪其三男、府直轄事業として舞鶴湾の真珠養殖を建言

牛窪其三男は、旧田辺藩士牛窪松軒の息子、京都水産講習所初代所長を勤め、京都府の水産事業に貢献しました。昭和2年退官の際には京都府水産会から功績を表彰されます。

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1864年(文久4)7月20日

牧野誠成、京都御所の警衛を仰せつけられる

8月4日藩は、公儀より国柄につき自国警固を厳重にとの指示があり、藩兵が少人数と伺い出たところ、京都御所の警護を免除され藩兵は帰国することになります

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1600年(慶長5)7月21日

田辺城攻防戦始まる、籠城軍、敵勢の猛攻によく耐え城を死守する

前日20日、福知山城主小野木公郷(重勝)ら率いる大坂方軍勢1万数千人が、丹後国境を越えて侵入しました。

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1785年(天明5)7月23日

町方流行病の気配につき、朝代社、愛宕社、神明社に町中総参りして、病難除け祈祷を行う。

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1600年(慶長5)7月24日

細川忠興、下野国小山参陣、石田三成挙兵につき大坂表へ詰め寄せることとなる

有名な小山評定です。田辺城はいまだ籠城中でした。

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1832年(天保3)7月26日

藩、日照り続きにつき、朝代社、知恩院、大川社に、この日晩より28日まで雨乞いの祈祷を行うよう達する、松尾寺にても五穀成就、雨乞い祈祷執行を達する。

この年は前年と同じ年貢米高でしたが、翌年3500石ほど減少し諸色高値となりました。

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1855年(安政2)7月27日

当藩家中の面々、暁7ツ時出宅にて上根、寺田村山へ罷り越し、猪鹿狩りを催す

当時の狩の様子、詳しくはこちらを参照してください。

https://marumaru.kpu-his.jp/column/2023/03/92

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1866(慶応2)7月28日

町年寄月行司(平野屋町)、藩主が芸州口討手としていよいよ出陣するため、朝代社・愛宕社・大川社において、8月1~3日、2夜3日の間、軍神祭祈祷執行を依頼し御札を献上すること、町方3日の間日尽しで一同参詣することを達する

慶応元年に続いての軍神祭祈祷です。

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1829年(文政12)7月29日

藩、文化3年11月に町方役人へ預けた求心舎常入用銀札7貫匁を、同舎・立敬舎に各3貫匁ずつ分けて預け置く。

求心舎は町衆、立敬舎は村衆のための心学道場で預金の利子で運営し、求心舎は塩屋長右衛門家で開設され、家賃不要と願い出ています。

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1945年(昭和20)7月30日

米軍艦上機延べ230機、舞鶴軍港とその周辺を空襲

舞鶴空襲は、29日米軍艦上爆撃機1機来襲し、舞鶴海軍工廠に爆弾(原爆模擬弾)が投下されました。現在も慰霊祭が続けられています。

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