8月 まるまる舞鶴 今日は何の日

2023年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

1936年(昭和11) 舞鶴町、四所村、高野村、中筋村、池内村、余内村を編入

1938年 舞鶴町、市制施行し舞鶴市

東舞鶴市設置(中舞鶴町、新舞鶴町、倉梯村、与保呂村、志楽村合併)

1942年 朝来村、東大浦村、西大浦村、東舞鶴市編入

舞鶴市の変遷は8月1日に集中しています

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1804年(文化元年)8月2日

藩、城内の日傘および日笠着用につき、諸出家は日傘、日笠とも、無格の家臣妻子、家中下女、百姓町人妻子は日傘、中間、家中下男、百姓町人は日笠、在町とも商人は日笠、下駄の使用を以前より禁止、近頃は緩んでいるので心得違いしないよう達する

身分によって日傘、日笠、下駄と細かく規定を定めていました。城内に限っていますが、これでは暑さを凌ぐことができないのではと思います。

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1767年(明和4)8月3日

牧野惟成、帰城する。当年が牧野氏の田辺城地拝領100周年となるによって、その祝儀を執り行う。

参勤交代による帰国ですが、100年前の1668年(寛文8)、牧野親成が京極高盛より田辺城を受け取った8月15日に近いともいえます。

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1866年(慶応2)8月4日

藩、由良村、神崎村、大浦辺、吉原町漁船、町方船乗りに対し、今後不容易の風聞で海上へ出る際は心をつけ、小船たりとも見慣れぬ軍艦、蒸気船をみれば、早速戻り郡役所へ申し出るよう達する

7月晦日には、藩は今後の船入用のため、入用の際は相当の値段で買上げるとし、他国へ差し出すことを禁止しています。

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1656年(明暦2)8月5日

京都所司代牧野親成、前任板倉重宗領の摂津国嶋上郡、嶋下郡、河内国石川郡、古市郡内の高2万2600石をたまわり、知行地高3万2600石となる。

京都所司代領は、現在の高槻市・茨木市、八尾市・柏原市・千早赤阪村まで、幅広く存在しています。

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1600年(慶長5)8月7日

八条宮や中院通勝・冨小路秀直ら公家、これより先、幽斎の救助につき大坂奉行前田玄以と交渉する、この日、石田三成、禁中からの断りにより叡慮に任せ、幽斎を助命する旨を佐竹義宣へ知らせる。

この田辺城の遺構は貴重であり、重要な文化財です。

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1854年(嘉永7)8月8日

藩、蚕は国産品のところ、近ごろ不正の種もあるようなので、領分へ立ち入る種屋取締りのため千原村周五郎に蚕種改方を申しつける。周五郎の改印を受けた種屋が回るので蚕業者へ承知するよう達する

1816年(文化13)1月に、藩は蚕種を志楽・大浦・祖母谷・池之内組に各7枚、中筋組に9枚を割りつけて養蚕を行わせており、蚕種段階から統制をしていました。

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1840年(天保11)8月9日

藩、村々の内にて操り芝居を相回したい願出が聞済みとなった旨を東西大庄屋中に達する

天保2年8月には、神事祭礼・虫送り・風送りと名付けて行う芝居同様の催し、神楽・笹踊・振物以外は禁止となっていましたが、人形操り芝居は許可されています。

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1932年(昭和7)8月10日

丹後木津、久美浜間開通し舞鶴、豊岡間全通、宮津線と呼称

1924年(大正13)4月に開通した宮津線には、舞鶴・四所・東雲・丹後由良・栗田・宮津駅が開設されました。

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1581年(天正9)8月11日

検地奉行米田宗堅、智恩寺の検地を施行、藤孝、智恩寺、金剛心院に寺領・被官などを安堵する

1602年(慶長7)

上東村、下東村、検地が施行される 奉行、河瀬伊折、山脇二右衛門尉

検地の多い日でした。

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1600年(慶長5)8月12日

徳川家康、忠興の助勢を賞して但馬一国を加増する旨伝える

この加増は、『寛政重脩諸家譜』によると、井伊直政、本多忠勝とともに先鋒として、清洲に入城した際に、家康から書状とともに届いた判物に記されていました。

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1928年(昭和3)8月14日

オオキンレイカ(オミナエシ科)を青葉山で初めて採取

『京都府草木誌』(1962年)をまとめた竹内啓が採取し、牧野富太郎博士が花を金の鈴に見立て、オオキンレイカ(大金鈴花)と名付けました(『舞鶴市史』各説編他)。

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1814年(文化11)8月16日

当藩を通過の修験者、この日の日記に、田辺は日本一の倹約を出し、他国の祈祷、配札ならびに托鉢修行者を入れず、よって国内段々凶事起こると記す

この修験者は、日向佐土原の野田泉光院で、全国各地を旅した「日本九峰修行日記」に記されています

国内の凶事とは、7月27日山崩れによる田地破壊、由良港の13軒が潰れ19人が死去、その責任を問われ家老・用人が切腹したとありますが、実際は洪水による被害のようです。

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1860年(安政7)8月18日

藩、桐実不熟のうちの空商いは禁止。すべて産物は昨年通り会所にて入札申しつける。違反者は桐実を取上、桐木伐払いを実施する

15日には、繭・櫨実・漆・楮子(楮)の空商いも停止しています。この時期、国産品の空商(先物取引)を禁止しています。

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1857年(安政4)8月19日

藩、昨年白杉村横浪に築いた台場の大砲を引土村にて鋳立てるので、在方以外に町方も相応の夫役を指示。

この大砲を造るために、10月藩は、古銑・鍋釜・鋤先を買い上げるので、不用分を取り調べ、引土村鋳物師六左衛門方へ差し出すよう命じています

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1906年(明治39)8月21日

舞鶴海軍工廠、建造部第1船駆逐艦追風(おいて)竣工

明治36年に改編して設置された舞鶴海軍工廠の最初の建造船となり、駆逐艦建造の中心となりました。

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1691年(元禄4)8月22日

牧野冨成、小橋村五郎兵衛の親孝行を賞して鳥目3貫文、親源左衛門へ蔵米2俵を給する。城内で演じられていた能を見させる。

田辺藩は孝子顕彰の盛んな土地で、五郎兵衛は領内最古の孝子です。

https://marumaru.kpu-his.jp/column/2023/03/197

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1865年(慶応元)8月23日

藩、藩主進発並びに出陣中につき、当9月朝代祭礼の儀、追って沙汰あるまで差し延べるよう達する

この進発により、5月13日夜祭・氏神祭礼、7月12日盆中仏祭のほか諸事見合わせとなります。とうとう武運長久祈祷の朝代社まで延期となりました。

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1945年(昭和20年乙酉)8月24日

輸送艦浮島丸、舞鶴湾内航行中遭難沈没(死者549人)

青森県大湊から、朝鮮へ帰るための施設部工員・民間人等約4000人を載せた浮島丸は、連合国司令官の日本船舶航行禁止指令により航路を変更し、舞鶴へ入港する途中でした。

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1818年(文政元)8月

蒲江村、同村前面の由良川で魞漁を始める

この魞(えり)漁は、大庄屋山口仁右衛門の発案で、琵琶湖の魞漁を近江国久保村の熟練者から習得しました。多額の利益が出たので、藩はまず、川の西半分、後に財政難のため、東半分も取り上げ藩営としました

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1785年(天明5)8月28日

牧野宣成、南有路村兵助、源五郎兄弟の孝養を賞して、父母へ生涯1人扶持ずつの養老米を給する

祖父は大庄屋を勤めましたが、享保飢饉などにより困窮しました。24年後、牧野以成が鬼が城へ登山した際に、兵助の孝行を聞いて金を下賜しています。

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1896年(明治29)8月30日

大暴風雨、加佐郡内の被害甚大

舞鶴幼稚園は、この水害で多くの文書が失われました。また、明倫小学校の日誌には、古老の話として享保20年以来160年間、いまだかつてない大洪水と記録しています。加佐郡内では死者50名の被害となりました。

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1288年(正応元)8月

丹後国衙、丹後国一国全体の荘園・郷・保・社寺等の名称とその田積を調査した大田文「丹後国諸荘園郷保惣田数帳目録」を製作する

明治17年、京都府編纂の「加佐郡誌」にも「正応田数帳ニ志高庄アリ」と引用されています。https://marumaru.kpu-his.jp/column/2023/04/2443

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