12月 まるまる舞鶴 今日は何の日

2023年X掲載、『舞鶴市史』年表を中心に

1939年(昭和14)12月1日

舞鶴鎮守府復活

1945年(昭和20)

舞鶴鎮守府、海軍省解体により、第二復員省舞鶴地方復員局となり終戦処理業務に当たる舞鶴海軍工廠、第二復員省舞鶴地方復員局管業部となる

要港部から復活した鎮守府は、6年目に廃止され、復員業務を担いました。

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1848年(嘉永元)12月2日

藩、1匁札に紛らわしい儀が見え、この度加印出来したので、所持札を札所にて引き替えるよう達する

田辺藩は、偽札防止のため宝暦7年(1757)、享和2年(1802)、天保8年(1837)、嘉永元年に札改が実施され、藩札に改印が押されました

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1942年(昭和17)12月3日

明倫国民学校、団栗採取遠足実施し割当量1石5斗を突破

団栗は工業用アルコールや家畜飼料の原料となり、国民学校に割り当てられました。遠足では、1年生が桂林寺裏、3年生は愛宕山、高等科は高野由里など学年ごとに場所が定められていました。

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1705年(宝永2)12月5日

田辺藩士ら、品川表海浚えの賞として、幕府より白銀、時服、羽織をたまわる

この時の浚えは、品川表海・浅草川他も実施され、閏4月18日、田辺藩牧野家の他に、白河藩主松平家、長岡藩牧野家、松本藩水野家、亀山藩板倉家の5家が命じられました。

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1836年(天保7)12月6日

藩、4月の拝借米残り半高返納を来秋まで延期する

この拝借米は、天保の飢饉によるもので、4月に1200俵、内半高は6月末に返納、12月には1万俵を貸与される事態になりました。

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1941年(昭和16)12月7日

舞鎮司令長官、幕僚、機関学校長、要塞司令部幹部ら由良神社(由良村)へ騎乗参拝

このとき、舞鶴司令長官小林宗之助、海軍機関学校長鍋島茂明、陸軍少佐村田鹿蔵が参拝しています。この日は太平洋戦争開戦前日であり、戦勝祈願と考えられます。

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1864年(元治元)12月8日

藩、野州浪士1000人ばかり越前方面へ乱入につき、領内に立ち入ることも計り難く、もし怪しい者を見受ければ早速注進するよう達する

野州浪士とは、天狗党で、この時の触が領内に出された最初のものとなりました。詳しくは以下のコラムにあります。

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1836年(天保7)12月                       

藩、食料の備蓄を奨め、米穀・日用品の抜売り、買占めを禁止する旨達する また、拝借米1万俵を貸与する

藩、借銀・無尽掛銀の年延べ、無取引は相成らないことを達する

これらの措置、天保の飢饉によるものでした。

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1362年(貞治元)12月11日

洞院実夏、「余戸里事国衙方」を春屋妙葩に寄進する

洞院実夏の父公賢は、丹後国の知行国主であったので、余戸里の国衙方は洞院家領だと考えられています。春屋は延暦寺等の強訴事件により、1371年(応安4)余戸里に隠棲し、雲門寺を建立します。

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1841年(天保12)12月12日

生野銀山猪野々町年寄長兵衛、野原村銀、銅山採掘願を幕府勘定奉行所に提出する

長兵衛は、まず天保7年に田辺藩に申請し不許可となり、天保15年まで申請しましたが、許可が下りませんでした。この鉱脈は、銀・銅・鉛の有望な山であったようです。

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1854年(嘉永7)12月13日 

引土村鋳物師金屋(国松)六左衛門、藩御用の西洋下曽根派6ポンド短熕(大砲)1梃を鋳造する

1857年(安政4) 引土村金屋六左衛門、藩御用の三貫匁筒1梃鋳造する

引土村金屋六左衛門に依頼された大砲関係の仕事、いずれも12月13日でした。

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1853年(嘉永6)12月14日

藩、異国船渡来以後の武備入費の増大や借財の膨張のために窮迫した財政の取扱いを、在町に任せる旨の藩主御意書を渡し、御用金の上納を令達する

この年は4月に江戸城西ノ丸普請入用のため4000両の御用も指示され、年に2度も御用金がありました

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1914年(大正3)12月15日

舞鶴大野辺海岸にて野島銀蔵、カーチス飛行機に搭乗飛行する

野島銀蔵は、民間飛行家であり、ライト兄弟が飛行に成功したのが1903年12月17日なので、ほぼ11年後でした。前日には綾部でも飛行しました。

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1864年(元治元)12月16日

志楽組大庄屋、吉坂村出張所入用につき入木を村々へ割りつけ、18日までに吉坂村口へ差し出すよう達する

この出張所は、天狗党を警戒する藩士のための場所でした。志楽の村々の鉄砲所持者は、異変の際には吉坂越を防ぐよう指示がありました

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1836年(天保7)12月17日

池之内組大庄屋、村々に村内の難渋者を取り調べ報告させる

天保の飢饉による難渋者への藩の対応として、天保5年3月難渋者へ救米300俵を与えました(郷中全体へは農料米2400俵を拝借として)。天保7年8月19日にも難渋者に米を小売しています。

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1864年(元治元)12月18日

藩、脱走賊徒が越前国今庄に屯集のため、諸藩が討ち手を差し向ける。そのため村々へ散乱の徒が落ちのびるかもしれないので、見知らぬ他所者には止宿させず、怪しい者は出張役人か郡役所に申し出ること

天狗党が近づき藩の指示も緊迫しています

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1842年(天保13)12月

藩、当秋野形見分の節、村方一統雑費相減じた趣、右は当年ばかりの儀でなく、宗門改め役人出郷の節も野形見分通りに相心得、万端質素に致すべき旨を達する

役人が村へ出張する際には、過剰な飲食の提供もあり経費がかさんでいたことが分かります。

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1896年(明治29)12月20日

臨時海軍建築部支部を雲門寺(余内村字余部下)に設け事務開始、支部長中溝徳太郎海軍大佐着任

この時の臨時海軍建築部長は軍務局長山本権兵衛少将でした。実務を担った中溝は、明治34年10月1日の舞鶴鎮守府開庁時に初代参謀長となりました。

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1703年(元禄16)12月22日

夜子ノ刻、地震起こる この時江戸地震

江戸の地震とは、11月22日に発生した江戸・関東の大地震です。この後、宝永4年(1707)10月4日宝永地震、11月23日富士山噴火もあり、地震活動の活発な時期となりました。

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1890年(明治23)12月

共立魚会社解散

共立魚会社は、江戸時代からの魚問屋が組織されたものです。解散後、明治24年に舞鶴海産合資会社となり、明治38年吉原が分離し吉原水産合資会社を設立します。仲買として地元、高浜・小浜の鮮魚、石見・隠岐・越前の塩魚を扱いました

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1910年(明治43)12月24日

鉄道院新造連絡船第三橋立丸(150t)、舞鶴、宮津間就航

明治37年11月鉄道連絡船橋立丸(58t)、39年7月第二橋立丸(170t)が就航し、40年国有化し鉄道院管轄となりました。この後、大正13年4月舞鶴ー宮津間の鉄道開通まで運航されます。

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1948年(昭和23)12月25日

私立森、溝尻、敷島、朝来、上安、田辺、真名井中学校廃止

戦後、新学制の中学校は昭和22年4月に開校しましたが、建物が少なく旧海軍施設の宿舎などを使いました。溝尻、敷島、朝来は白糸中、上安、田辺、真名井は城南中に編成されました。

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1956年(昭和31)12月26日

ソ連ナホトカから最後の引揚者(1025人)興安丸にて舞鶴に入港

12月15日、舞鶴市議会は、ナホトカ市長に対して友好決議を行い、国交回復後初の就航船となる興安丸船長に託しました。

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1854年(安政元)12月27日

藩、この度公儀より、領分近海へ異国船渡来の節は京都にもかかわるので、宮津藩主松平伯耆守とともに、領分、他領の差なく互いに援兵差し出し防御するよう達する

異国船触は文化5年のフェートン号事件から出され、その後も文政、天保と続きます。

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1863年(文久3)12月

藩、素麺の儀は国産にも相成るにつき、農業手透きの節、素麺職致したい者は取締りの者へ願書差し出し申すべき旨を達する

天保5年城下竹屋町では全44軒中、素麺職が2軒ありました。明治期には北前船で上り荷として丹後から素麺が輸出されていました。

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1843年(天保14)12月

藩、領内で鉄砲にて猪・鹿のほか鳥を撃つのは重い法度であるが近来猥りなので、以来不法の場合当人・村中越度であると達する

領民の鉄砲使用は、獣害対策以外は禁止でした。この時期、丹波市ノ瀬村の村人が溝尻村で発砲し、領主から吟味を受けました

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